布瀬村(読み)ふぜむら

日本歴史地名大系 「布瀬村」の解説

布瀬村
ふぜむら

[現在地名]沼南町布瀬

手賀てが村の東にあり、北・東・南の三方を手賀沼に囲まれる。集落は同沼に舌状に突き出た台地上と沼べりに集まる。台地の突端には鎮守香取鳥見かとりとりみ神社の極相林がある。沼を挟んで東方は発作ほつさく新田(現印西市)、北方対岸は布佐ふさ(現我孫子市)、南方は金山かなやま落の入江を隔て平塚ひらつか(現白井町)。第二次世界大戦後の手賀沼干拓以前はそれぞれの村に通じる渡場があった。中世は相馬そうま御厨のうち。

〔中世〕

嘉禄三年(一二二七)一二月、相馬能胤(義胤)は相馬御厨内「ふせ」を手賀、藤心ふじごころ(現柏市)野木崎のぎさき(現茨城県守谷町)の三ヵ村および陸奥国千倉ちくら(現福島県鹿島町)とともに女子とよ(土用)御前に譲与(「相馬能胤譲状案」正木文書、以下断りのない限り同文書)、この相続は、貞永元年(一二三二)一一月一三日、幕府より安堵された(将軍家政所下文案)。その後の伝領は手賀郷と同様で、とよ御前から女子とち御前に譲られた。とち御前(尼真如)の女子藤原土用王御前(尼妙蓮)は建武元年(一三三四)一二月二一日、母方の実家岩松氏からとよわう(直国)を養子に迎えて南相馬のうち藤心郷・手賀半分東方・「ふせの」などを譲与している(尼妙蓮譲状案)。応永二年(一三九五)閏七月、岩松満国の代官によって鎌倉府に提出されたと思われる所領注文案には「手賀郷内布施村 二階堂山城知行」とある。

布瀬村
ふせむら

[現在地名]大佐町布瀬

多治部たじべ村の東に位置し、小坂部おさかべ川が流れる。集落は河内こうち新殿にいどの松坂まつざか末永すえなが宗貞むねさだ・下布瀬・やな草に散在し、江戸後期には上組・下組・宗貞組に分れていた。康正元年(一四五五)八月二二日の妙琳譲状(竹田家文書)に「小坂部郷之内布施村」がみえ、妙琳から孫道祖法師丸に譲られている。戦国末期と推定される新見庄地頭領家年貢目録(同文書)には「拾八貫 布瀬村」とあり、天正一五年(一五八七)頃の吉川広家領地付立(吉川家文書)にも「拾八貫 布施」とみえる。

寛永備中国絵図に布施村とみえ、高一八一石余、松山藩領。正保郷帳には多治部村の枝村の一として布瀬村がみえる。元禄五年(一六九二)の免目録(大佐町史)によると高六二三石余、うち高一一九石余に対する免は七ツ、三八二石余に対する免は六ツ六分、ほかに新田分が二石七斗あり、この免は四ツ。

布瀬村
ぬのせむら

[現在地名]富山市布瀬町一―二丁目・布瀬町

富山城下南西の出入口にあり、神通川右岸に位置する。対岸の婦負ねい有沢ありさわ村との間に神通川渡場がある。当村南西で熊野くまの川が神通川に合流する。中世は太田おおた保に属した。正中二年(一三二五)一一月の大江顕元申状案(金沢文庫古文書)によると、亡父覚一拝領の越中太田保内赤田あかだ村は中務丞元長、布瀬村は四郎元忠に譲られており、大江氏の支配下にあったようである。

布瀬村
ふせむら

[現在地名]備中町布瀬

高山こうやま(現川上町)に源を発し成羽なりわ川に合流する布瀬川に沿った狭隘な谷筋に位置。南には磐窟いわや(国指定名勝)があり、七地ななち(現川上町)と接する。西は布賀ふか村。吉備津神社の流鏑馬料足納帳に、康正三年(一四五七)分として「二百八十文 ふせ 直納」とある。寛永備中国絵図に布施村とみえ、高二五五石余で山崎家治先知。正保郷帳では布瀬村とみえ、幕府領、枝村として下布瀬村が載り、東方の成羽川沿いにある。明和三年(一七六六)の御領分村々田畑高之覚(山崎文書)では高三四一石余、旗本山崎領となり、幕末に至る(備中村鑑)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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