大山城跡(読み)おおやまじようあと

日本歴史地名大系 「大山城跡」の解説

大山城跡
おおやまじようあと

[現在地名]桂村阿波山

小高い丘上にあり、館山たてやまとよばれる。丘の東南を桂川が流れる要害の地である。

長承元年(一一三二)大掾氏が家臣鈴木五郎高郷に築城させた。のち佐竹義篤の子義孝がこの城に移り、大山氏と称し因幡守と号した。康安二年(一三六二)の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)に「福王丸分 大山氏、一、那珂西高久半分大山村次内田村清水庵知行して福王を可扶持也」とみえる。以後、大山氏の居城となった。「佐竹系譜」(佐竹寺蔵)によると、天正一九年(一五九一)七月佐竹義宣の奥州出陣に際し大山義景に対して「奥陣ノ時二万五千人催促ノ内大山四十騎二百廿人催促ナリ」とあり、また文禄二年(一五九三)豊臣秀吉朝鮮出兵の時には「大和田重清日記」の六月二五日の項によると、大山義景は菅谷氏・岩城氏とともに「大船一艘」を割当てられ、同二六日の項では前記二氏とともに朝鮮出陣を命ぜられ、第八陣として渡鮮したとある。

大山城跡
おおやまじようあと

[現在地名]篠山市大山・下北野など

大山下おおやましも集落の北西台地突端に位置する。すぐ東側を大山川が流れ、東の側壁断崖である。西も深い沢になっており、天然の要害である。在地領主長沢氏(中沢氏)の居城という(貞享記)。中沢氏は鎌倉期以来大山庄地頭職であったが、永正五年(一五〇八)七月、中沢日向守元綱は波多野元清によって殺害された。この時元清は「日向守私宅」へ発向した後、大山庄の一院谷を焼払ったため、百姓たちは山野へ逃れた(七月二〇日「大山庄一院谷百姓等申状」東寺百合文書)。主郭は東西六〇メートル・南北七〇メートルで、北・東に堀切が築かれている。また北堀切に沿って、一部土塁が残っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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