市村新田(読み)いちむらしんでん

日本歴史地名大系 「市村新田」の解説

市村新田
いちむらしんでん

[現在地名]柏原市上市かみいち一―四丁目・清州きよす一―二丁目・堂島どうじま町・河原かわはら町・法善寺ほうぜんじ一丁目・いま町一―二丁目・ふる町二丁目

柏原村の東に位置。宝永元年(一七〇四)の大和川の付替えでできた新田村。大和川の流れを堤防を築いて堰止め、西に屈曲させた所を築留つきどめという。当村はこの築留の堤防から北の二俣ふたまた(旧大和川の分岐点、現八尾市)までの間の狭長な地域を占める。旧大和川の河床部では最上流にあたる。開発は付替えの翌年から着手された。開発人は柏原村、船橋ふなはし村・北條ほうじよう(現藤井寺市)川辺かわなべ(現平野区)苅田かつた(現住吉区)枯木かれき(現東住吉区)の二三人であった。

市村新田
いちむらしんでん

[現在地名]河内長野市木戸きど町・千代田南ちよだみなみ町・まつおかひがし町・西にし町・なか町〉・くすのきひがし

現河内長野市北端にあり、北は錦部にしごり新田(現富田林市)、東は錦部村(現同上)と市村、西に市村の飛地がある。当地には弥生中期の土器石器が出土した塩谷しおたに遺跡がある。慶安二年(一六四九)上原うわはら村の中村祐和が次男与次兵衛とともに、西隣の小山田おやまだ村領のてらヶ池を改修して池床二町六反余に広げ、その水下に新田を開発して移り住んだ。初め野之宮ののみや新田といったが(寺ヶ池碑文)、承応二年(一六五三)検地帳(中村重喜家文書)には市村新田とある。同帳によると田反別五四町九反余・分米五〇七石余、畑・屋敷反別二三町六反余・分米一七六石余。元禄六年(一六九三)には高六一五石余(「寺ケ池書物之写」膳所藩資料館蔵)、以降大きな高の変化なく開発以来近江膳所藩領。

市村新田
いちむらしんでん

[現在地名]頸城村市村新田

保倉ほくら川北岸にあり、東西松之山まつのやま(現東頸城郡松之山町)への道が走る。東に下神原しもかなはら新田、西に上三分一かみさんぶいち村がある。正保元年(一六四四)おおぶけ新田が開発された時に成立した。正保国絵図に高八一八石余とある。大新田の開発者の一人神戸三郎左衛門は、分一米として三三〇石を与えられ、うち二〇五石三斗余は当村のうちであった。天和三年郷帳によれば高九〇石一斗余とあり、さらに同所新田として高一七〇石五斗余と高三六三石一斗余、および「市村新田」高二〇八石八斗余が記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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