市小路町(読み)いちしようじまち

日本歴史地名大系 「市小路町」の解説

市小路町
いちしようじまち

[現在地名]博多区下呉服町しもごふくまち中呉服町なかごふくまち綱場町つなばまち奈良屋町ならやまち

呉服町下の北に続く南北道に沿う両側町。南から市小路町上・市小路町中・市小路町下と並び、南は中間なかま町・中石堂なかいしどう町の通り(唐津街道)、北は市小路町浜いちしようじまちはま浜口町浜はまぐちまちはまの通りで画される。市小路町中と市小路町下の間を奥小路おくしようじ町と廿家にじゆうや町の通りが交差する(福岡博多近隣古図)町名は天正一五年(一五八七)豊臣秀吉が博多の町割を行った時、当町から縄張りを始めたので「一小路」と称したと伝え(続風土記)、「市小路」の用字は誤りともいう。慶長一五年(一六一〇)の御祓賦日記(神宮文庫蔵)に「市小路」とあり、木本大郎右衛門・立石彦三郎・山下善二郎ら七名がみえる。元禄三年(一六九〇)の家数は上三〇・中三〇・下三一(続風土記)。明和三年(一七六六)には上の家数三二・間数一〇六間余、中の家数二九・間数一二九間余、下の家数三六・間数九八間余(石城志)。慶応二年(一八六六)の家数は上三九・中二九・下二二(博多店運上帳)

天正期から寛文(一六六一―七三)初期の博多年行司徳永宗也は博多の惣司として公税等の業務もつかさどり、屋敷の背後には裏町に続く津内の収納蔵があったという。宗也の屋敷は当町西側にあったというが、一説には東側とも、あるいは東西両側ともいう。のちに白水氏の宅地となった東側の屋敷地は古くは法性寺の境内で、博多町割以来表口二四間一軒の地であったという(石城志)。慶長年中の福岡城築城の時、初代藩主黒田長政は宗也宅に滞在したと伝える(同書)。慶長一三年七月、長政は宮崎織部と宗也に「博多福岡町人五人組之儀」について申渡している(「長政公御代御書出令条」九州史料叢書)。宗也は幕府の朱印状獲得にも奔走したらしく(一一月二四日「黒田長政書状」石城志)、その結果「博多宗也内 大賀九郎左衛門」に対して暹羅(シャム)行きの朱印状が下付されている(通航一覧)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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