奈良屋町(読み)ならやまち

日本歴史地名大系 「奈良屋町」の解説

奈良屋町
ならやまち

[現在地名]西区西本にしほん町一丁目

阿波堀あわぼり川を挟んで信濃しなの町の南にあり、東は西横堀にしよこぼり川に接する東西に細長い町。同川には奈良屋橋が架かって椹木さわらぎ(現東区)と結ばれ、阿波堀川には東からさいわい橋・しん橋・下奈良屋しもならや橋が架かって信濃町と結ばれる。明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図に「奈らや町」とみえる。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数三九・役数四四役で、うち年寄分一役が無役。年寄は奈良屋昌弘。おそらく奈良屋が開発町人で、町名はそれに由来すると思われる。当町の東部解船ときふね町とも称され、古船を解体した古材やそれを材料にした風呂桶・水走り・井戸側などを売る店が多かった。

奈良屋町
ならやちよう

[現在地名]水戸市みや町一―三丁目・みなみ町一丁目

黒羽くろばね町の南端より東に下る所を両側りようがわ町、俗に両町、両側町を東へ下りつめて左は和正院わせん町、右は南へ走り千波せんば湖に至るまでを片側かたがわ町、俗に片町と称した。両町・片町を併せて下谷とも称し藤沢小路ふじさわこうじよりさく町への通路であった。元禄三年(一六九〇)の令に「蔭山丹右衛門前の下谷坂をならや町」とみえる(水府地理温故録)

水府地名考」に「古老の伝説に古の駅場なりと云へり昔この地に住せし大関某が家説に其駅長にて天正の比石田三成佐竹氏を訪ひ来りし時旅宿となり其時用ひたる食器于今持伝へしなと云へり」とあり、また同書に「この所初めハ片原町と唱へしよし(中略)其後正保二年当所の間口帳に奈良屋町と記したれハこの比より町名も定まりしと見ゆ」と記す。

奈良屋町
ならやまち

[現在地名]福山市かすみ町一丁目

神島かしま(下市)の一筋南、東西に通る通りの両側町。水野氏が大和郡山(現奈良県大和郡山市)から移封した際、これに同行して移住した商人に奈良屋才次郎・重次郎・庄次郎の兄弟があり、彼らは町割と同時に多くの屋敷地を得、借屋も建て、その屋号が町名となった。ただし水野時代福山城下地図には奈良屋の屋敷二軒が描かれるが町名はみえない。奈良屋(のち隅屋と改号)子孫は姓を藤野と称し、阿部氏時代まで栄え、天明(一七八一―八九)頃には藩の用達を務めていた。しかし天明六年の百姓一揆元凶である藩の元締役遠藤弁蔵の奸計にかかり、資産を蕩尽し、後には闕所追放され、笠岡かさおか(現岡山県笠岡市)に退いている。

奈良屋町
ならやちよう

中京区河原町通三条下ル三丁目

河原町かわらまち通を挟む両側町。

町名は寛永以後万治以前京都全図・寛永版平安城東西南北町並之図にそれぞれ「ならや丁」とみえ、以後変化はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報