己斐村(読み)こいむら

日本歴史地名大系 「己斐村」の解説

己斐村
こいむら

[現在地名]西区己斐町・己斐〈うえ一―六丁目・ひがし一―二丁目・なか一―三丁目・ほん町一―三丁目・西にし町〉

佐伯郡の東端にあり、東は太田おおた川から分流する己斐川(現太田川放水路)を隔てて広島城下川田かわだ村に隣接する。三方を山に囲まれ、南に開ける谷あいの平地と己斐川河岸の山陽道沿いに集落が展開する。正治元年(一一九九)一二月日付の伊都岐島社政所解(新出厳島文書)に「己斐村」とみえる。「閥閲録」所収草苅太郎左衛門家文書の永禄三年(一五六〇)の軍忠状には「許斐」とある。「芸藩通志」は「筑前宗像に許斐村ありて許斐の神社を置く、(中略)己斐、許斐おなし、考へし」と記す。また年未詳の二宮俊実覚書(吉川家文書)には「古井」とも記される。「国郡志下調書出帳」は「当村名昔時神功皇后長門の熊襲御征伐の時当所え御船を止め給ふ所え、県主大きなる鯉を奉りたれば皇后殊に嘉し給ひたる故を以て鯉村と申す」との伝えを載せる。また「秋長夜話」は「己斐村はかひ村なるへし、峡は山間なり、此地両山の間にはさまる故にかく名つくるなるへし」と記す。

前記正治元年の政所解では「己斐村二段」の地が日御供田として厳島神社から国衙へ申請されている。鎌倉中期に成立した安芸国衙領注進状(田所文書)によれば「己斐村十九町二段六十歩」が国衙領であった。しかし応輸田はわずかに三町三反三〇〇歩にすぎず、残りが除不輸免で、うち一一町七反大が「一宮御読経免」となっており、事実上厳島社の神領化が進んでいたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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