岩沢村(読み)いわさわむら

日本歴史地名大系 「岩沢村」の解説

岩沢村
いわさわむら

[現在地名]朝日村岩沢

北を高根たかね川、南を三面みおもて川が流れ、東方中原野なかはらのが広がる。北東は中原村、南は新保しんぼ村。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大国但馬分岩沢村 上」とみえ、本納二〇五石九升九合・縄高三二一石四升、家二四軒とある。近世は村上藩領、のち幕府領となり、幕末には米沢藩預所。宝暦三年(一七五三)の村明細帳(朝日村史)によれば田三七町五反三畝余・畑屋敷一六町四反五畝余。用水は高根川とこも川から引いた。寛政二年(一七九〇)武州坂本さかもと村定右衛門の開発請負地であった中原野六五町三反五畝余が当村・中原村・黒田くろだ村の村請となり、見取米を上納することになった。うち当村分は一二町・見取米一石六斗余であった(「覚」飯沼家文書)。中原野の開発はその後も進められ、享和三年(一八〇三)には当村百姓の庄右衛門ら四名が蒲原かんばら西条にしじよう(現北蒲原郡中条町)の松井八右衛門に新開を委ねる願書(同文書)を出し、八右衛門は当村百姓の同意を得たとして新田開発を塩野町しおのまち役所に願出た。

岩沢村
いわさわむら

[現在地名]小千谷市岩沢

信濃川の右岸、市域南端に位置する。中央の桜峰さくらずんね山麓にこれを取巻くように一三の集落が散在する。地区の南境に楢沢ならざわ川、北境に十八沢じゆうはちざわ川の信濃川に注ぐ小流がある。両川の間に硬軟の岩石の互層があり、両川の南側は硬質岩層により浸食を免れて急傾斜の断崖をなし、北側は軟質土層のため浸食と風化により緩斜面を形成して、典型的なケスタ地形となっている。山間部の集落と耕地とはすべてこの緩斜面に展開し、山地やまちと称している。また信濃川に沿った部分は平坦地となって耕地も広く、一般に里地さとちとよばれている。

岩沢村
いわさわむら

[現在地名]飯能市岩沢

入間いるま川の左岸に位置し、西は笠縫かさぬい村、東は野田のだ村・仏子ぶし(現入間市)、北は双柳なみやなぎ村、南は入間川を挟んで阿須あず村。加治かじ領に属した(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、高は田方五二石余・畑方一五一石余、幕府領。寛文八年(一六六八)に検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高四〇三石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領のほか見光けんこう寺領・白山社領別当明王みようおう寺領がある。「風土記稿」に元禄(一六八八―一七〇四)以降に上岩沢村・下岩沢村に分立したが、分界は錯綜していて分明でないとある。享保一七年(一七三二)入間川付の地所一町二反余が新田開発され、両村に高入れされた(同書)

岩沢村
いわさわむら

[現在地名]喜多方市上三宮町吉川かみさんみやまちよしかわ

下三宮しもさんのみや村の南西にあり、西は山を隔てて洲谷沢すだにざわ(現山都町)の小名小布瀬川こぶせがわ、南は見頃みごろ村、北は細屋ほそや村。慶徳組に属した。村北部の杉本すぎもとカラケから須恵器が出土し、古代集落の存在が推定されている。集落の北東に南舘みなみだて向舘むかいだて舘下たてのしたなどの地名があり、村民は堀がめぐらされていた辺りを腰巻こしまきとよんでいた。また西方たて山にも空堀跡が残されているが、これらの館跡の年代などについては不明である。大永二年(一五二二)一一月日の蘆名盛舜判物(新編会津風土記)に「於岩沢権現之御領分并矢流鏑馬役田等、棟役・段銭、如前々可為皆免許候」とあり、源義家勧請と伝える当地岩沢権現(現熊野神社)の諸役を免除している。

岩沢村
いわさわむら

[現在地名]吉川町岩沢

北は米山こめやま村、東は山直海やまのうみ村に接し、西に田中たなか村・国田こくた村がある。正保国絵図に高二一石余とみえるが、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳には高一二石四斗余とある。天和三年郷帳によれば高四九石六斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報