岩内村(読み)いわうちむら

日本歴史地名大系 「岩内村」の解説

岩内村
いわうちむら

[現在地名]辰口町岩内・旭台あさひだい

火釜ひがま村の東、手取川下流南岸に位置し、東は三ッ口みつくち村・莇生あんぞ村。石内とも記した。久安三年(一一四七)四月一七日の東大寺印蔵文書目録(東南院文書)に「加賀国石内保」とみえ、坪付・絵図等一通が作成されていた。同保が奈良東大寺領となった経緯は不明だが、当地近辺にあったと推定される同じく東大寺領の幡生はたう庄の加納田として開発されたとする説もある。応永一四年(一四〇七)三月日の長講堂領目録写(八代恒治氏旧蔵文書)によれば、宣陽門院領の庁分にあげられる加賀国能美庄は惣庄と山上やまがみ・石内の両村からなり、両村の領家は三条公雅家であった。

岩内村
いわうちむら

[現在地名]武生市岩内町

岩内山(別名杉崎山)とよぶ小丘陵南麓にある。中世の西谷にしたに庄内の一村で、地名は永享八年(一四三六)の新光寺文書(「鯖江藩寺社改牒」所引)に「西谷岩内新光寺」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図でも西谷庄に含まれ、村名は正保郷帳にみえる。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となり、元禄五年(一六九二)から一時土岐頼殷領となるが、享保六年(一七二一)以降鯖江藩領。

享保六年岩内村明細帳写(河端家蔵)によれば、田方二九町余で七一八石余、畑方一町七段余で三六石余、屋敷五段余。

岩内村
いわうちむら

[現在地名]御坊市岩内

日高川左岸野口のぐち村の南に位置し、西は日高川を挟んでその浦・しま村。熊野街道は小松原こまつばら宿から日高川を渡って当村に入り、村内には岩内王子があった。「中右記」天仁二年(一一〇九)一〇月一九日条に、藤原宗忠熊野詣の際、日高川を渡り石内いわうち荘司宅に宿泊したことがみえる。慶長検地高目録による村高三七二石余、小物成二斗一升、「日高鑑」に町数二六町九反余、家数四二で内訳は本役一五・半役一五・無役六・庄屋一・年寄二・ありき一ほか、人数二一四、牛一九、馬四、池三、御蔵一とある。天田組に属した。

「続風土記」によると村内に也久志波やくしば王子社・春日かすが(ともに熊野神社に合祀)明鏡みようきよう(浄土真宗本願寺派)があり、明鏡寺はもと吉祥寺という真言宗寺院であったが、永正八年(一五一一)改宗・改称したという。

岩内村
ようちむら

[現在地名]明和町岩内

はらい川右岸にあり、北は伊勢場いせば(現松阪市)、東はうえ村、南はいけ村、西は河田こうだ(現多気町)と接する。「桜雲記」応永二二年(一四一五)条に、北畠満雅挙兵に際して「今徳・榊原八田・天花寺・曾原・船江・波瀬・岩内・大淀・玉丸等ノ諸城ヘ軍士ヲ分ケ堅ク守ル」とみえるが、岩内城は飯高いいたか郡岩内(現松阪市)にあったものか、当村か判然としない。「伊勢国司記略」は当村に比定し、当村になお「枯濠」が残るとする。

岩内村
ようちむら

[現在地名]松阪市岩内町

伊勢寺いせでら村の北西にあり、北は一志郡小阿坂こあざか村に接する。「神鳳鈔」に「岩内御薗八丁、五斗」とあり、中世当地には伊勢神宮領が成立していたと考えられる。御所ごしよたにには岩内城跡があり、山麓には居館があったといわれる。「勢州軍記」に「為国司幕下、於諸郡中有興力被官也、三家共ニ凡侍三百人、内馬上五十騎、小人二百人、合五百之大将也」とある。岩内城跡については、「五鈴遺響」に「国司北畠家ノ別岩内主膳正光安住セリ、時俗岩内御所ト称ス、其男岩内王千代丸光吉二歳ノ時北畠具親ノ養子トス、北畠ニ改称ス、具親敗走ノ後岩内ノ家系断滅セリ」と伝えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報