山形城跡(読み)やまがたじようあと

日本歴史地名大系 「山形城跡」の解説

山形城跡
やまがたじようあと

[現在地名]山形市霞城町・桜町・大手町・木の実町・香澄町・香澄町一―三丁目・幸町・双葉町一―二丁目・錦町・城南町一―三丁目・春日町・城西町一―三丁目・城北町一―二丁目・相生町・旅籠町一丁目・十日町一丁目・同四丁目・本町一丁目・七日町一丁目・八日町一丁目・五日町

山形市西部、馬見まみさき扇状地の扇端部に位置し、扇央部に向かって城下が広がっていた。旧二の丸内を中心に国の史跡に指定され、霞城かじよう公園とよばれる。平城では全国有数の規模を誇り、米沢の上杉氏、秋田の佐竹氏、仙台の伊達氏など外様雄藩を睥睨する位置にあって、東国の押え(徳川実紀)と称された。かすみヶ城のほか、最上城・大山おおやま城・吉字きちじ城ともよばれた。霞ヶ城の名は、出羽合戦の折直江兼続が山形に兵を進めたところ、城が濃霧に覆われて俯瞰できず、戦局が最上軍に有利になったことによるという。

当地に初めて城を築いたのは、延文元年(一三五六)出羽国から南朝勢力を駆逐するため入部した斯波兼頼と伝える。兼頼は足利一門の斯波氏の一流である奥州探題斯波家兼の次男で、当地は最上郡山形郷とよばれており、兼頼は以後最上氏を号したという(「最上家譜」東京大学史料編纂所蔵など)。兼頼の嫡流は代々当地に居を構え、庶子を周辺に分封して最上郡・村山郡に勢力を拡大していった。しかし一族のうちには徐々に宗家の支配から離脱をはかる者も現れ、内紛が絶えなかった。最上四十八館とよばれる領内の城館は、この頃宗家の防衛のため配置あるいは補強されたと考えられる。当時馬見ヶ崎川は小白川こじらかわから若干北に振りながらもほぼ西流し、支流が扇状地を数条流れていた。扇端部には泉も湧出していたと想像される。兼頼が築いた城は、最上義光の二の丸の規模とほぼ一致すると考えられる。蔵増くらぞう(現天童市)の城内五万一千坪とほぼ同じで、文明(一四六九―八七)頃築造の高擶たかだま(現同上)山野辺やまのべ(現東村山郡山辺町)長崎ながさき(現同郡中山町)などの規模とも類似している。城内や城の周辺には社寺が建立され郭外には町が成立していたらしく、寺社・町の伝えに義光の城地拡大の際移転したとするものがある。

〔最上義光の山形城〕

最上義光が城郭の拡大と城下の建設に着手した時期は不明であるが、天正二〇年(一五九二)三月二八日、義光が家臣の蔵増大膳亮に宛てた書状(立石寺文書)は、名護屋なごや(現佐賀県東松浦郡鎮西町)の陣中から普請に尽力し火の用心に留意するよう命じたもので、天正から文禄(一五九二―九六)にかけて建設が始まっていたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「山形城跡」の解説

やまがたじょうあと【山形城跡】


山形県山形市霞城(かじょう)町にある城跡。別名、霞城、霞ヶ城(かすみがじょう)。最上(もがみ)氏の祖、斯波兼頼(しばかねより)が、1357年(延文2)に築城したと伝えられ、兼頼の子孫が最上氏を称して代々の居城とした。文禄・慶長年間(1592~1615年)、11代義光(よしあき)が関ヶ原の戦いの功で得た出羽山形57万石の本城とし、城郭を拡大して城下町を整備したが、孫のときに家中不取り締まりとされ改易された。その跡に、鳥居忠政が入部して本丸・二ノ丸を改築したので、現在の二ノ丸跡は鳥居氏時代の遺構といえる。鳥居氏以後、城主は11氏が交替し、山形藩の政庁が置かれ、水野氏のときに明治維新を迎えた。城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸が同心円状に配置された輪郭式の平城で、多くの門と櫓(やぐら)をもち、東西約144m、南北約133mの本丸は御殿だけで天守は築かれず、二ノ丸に御三階櫓が建てられた。二ノ丸は1辺450mほどの方形、三ノ丸は1.6kmと1.9kmほどの楕円形で、三ノ丸には最上家の上・中級家臣の屋敷、城外には寺院や町方が置かれた。城下町には商家が集まり、職人町や寺町がつくられ、城を中心に街道が放射状に延びており、18世紀中ごろには町方の人口が2万人を超えていたという記録がある。現在では、城のほとんどが失われ、石垣と濠が残る二ノ丸跡が霞城公園になっており、南大手門が市内の萬松寺山門として移築され現存する。1986年(昭和61)に国の史跡に指定され、二ノ丸東大手門が1991年(平成3)に復元された。JR山形新幹線ほか山形駅から徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報