山寺村(読み)やまでらむら

日本歴史地名大系 「山寺村」の解説

山寺村
やまでらむら

[現在地名]松山町山寺

堀場ほりば村の南にあり、東は出羽山地、西は最上川を境に下堀野しもほりの(現東田川郡余目町)。山麓の上野台かみのだい観音山かんのんやまには縄文時代の、見初沢みそめざわには縄文時代中期の集落跡と江戸時代の経塚、弁財べんざいには奈良時代から室町時代にかけての経塚がある。「大泉庄三権現縁記」永正三年(一五〇六)の記事に「山寺四ケ村ハ、土門熊野安保八鍬、是四騎之侍衆知行、並衆徒十八坊神領也」とある。

元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高八二石余。寛永元年庄内高辻帳では高四九三石余。なお寛永三年庄内高辻帳では二四八石余。天保一五年(一八四四)には免五ツ九分五厘、家数九六(「高辻并留」松山町資料館蔵)庄内要覧によれば「慶長年中、志村伊豆酒田在城ノ節、山寺ヨリ新道作リ、清川向ニ新興屋ヲ立、最上ヘ上下ノ船四艘預置キシ」とあり、この頃から当村は最上街道飛鳥あすか(現平田町)狩川かりかわ(現東田川郡立川町)間の宿駅として栄えた。また、松山藩領となってからは松山城下から庄内藩つるおか城下に向かう道が当地で最上街道から分岐、八色木やいろぎ(現東田郡藤島町)へと継送った(「要例集」松山藩内駅場史料)。馬方も多く、文久三年(一八六三)には最上川の渇水のため酒田から最上に合薬七個が遡航できず、当村近くで清川きよかわ(現立川町)の小舟に積替えられた。

山寺村
やまでらむら

[現在地名]伊那市大字伊那いな 山寺・坂下さかした

天竜川の右岸、北は御薗みその村境から南は小沢おざわ川に至る地域。西は箕輪みのわ領の原野に接している。

中世においては御薗に属し、「南御薗」あるいは「御薗之郷南」などとよばれていたらしい。天正六年(一五七八)の上諏訪大宮同前宮造宮帳(諏訪大社上社文書)には「御薗之郷北南」とあり、同一九年の信州伊奈青表紙之縄帳にもまだ山寺村の名はみえていない。山寺村の初見は「松樹園叢書」(清水英樹氏蔵)で「信州高遠鳥居主膳正知行之内、東いなべ村・みその村・きつね嶋村・山寺村此四ケ村」とあり、寛永一五年(一六三八)高遠たかとお領の御薗・山寺・東伊那部ひがしいなべ狐島きつねじまの四ヵ村が箕輪領の神子柴みこしば(現上伊那郡南箕輪村)羽広はびろ大萱おおがや与地よちの四ヵ村と入会地である鳥居原とりいはら(現上伊那郡南箕輪村)のことで争っているので、この頃には山寺村が成立していたことがわかる。

山寺村
やまでらむら

[現在地名]山形市山寺・上柳かみやなぎ下柳しもやなぎ割田わつた

下東山しもひがしやま村の北に位置。奥羽山脈面白おもしろ(一二六四・四メートル)から小東こあずま(一一三〇・二メートル)にかけての北西斜面の渓水を集めた紅葉もみじ川が立谷たちや川と合流する地点一帯の河岸段丘上に立地。立石りつしやく寺の門前集落として形成された山村。紅葉川の北岸に西から地蔵堂じぞうどう宮崎みやざき河原町かわらまち千手院せんじゆいんの集落が、同川の南岸に芦沢あしざわ所部ところぶ馬形まがたの集落がある。立石寺領を除く領主の変遷は上東山村に同じ。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高九九六石余。正保郷帳では田七一九石余・畑二七六石余・寺社領三四〇石余。「寛文朱印留」によれば、当村五〇〇石が慶安元年(一六四八)以来立石寺領となっており、幕末まで存続。

山寺村
やまでらむら

[現在地名]櫛形町山寺

小笠原おがさはら村の南、櫛形山東麓市之瀬いちのせ台地の下方に立地し、根方ねかたのうち坂下に属する。下市之瀬村との境をうるし川が南東流する。村名は曹源そうげん寺跡があることにちなむという。同寺は建保四年(一二一六)に小笠原長清が堂宇を修復し、源氏の菩提寺としたという説、応永年間(一三九四―一四二八)大井次郎信家が開基したとする説がある(「甲斐国志」、文化三年「村明細帳」内藤幹彦家文書)。村域は南北七町六間・東西七町一六間(同村明細帳)

山寺村
やまでらむら

[現在地名]草津市山寺町

馬場ばんば村の北東、美濃郷みのごう川と草津川の合流点付近に位置。村名は楽音がくおん(現廃寺)に由来するという。また古くは北谷きただにと称したともいわれ、小字名が残る。寛永石高帳では高五三五石余。慶安高辻帳では田二二二石余・畑一〇石余・永荒三〇二石余、ほかに小物として米三石余。草津宿の助郷。正保二年(一六四五)美濃郷川と菖浦谷しようぶだに川に挟まれた南東部の「みの原」が、京都の町人野村九郎兵衛ら三人によって開発され、山寺新田と称された。同年に一一石余、翌三年に四二石余と順次開発され、それぞれ三年後に年貢が賦課されている(明暦元年「免状」山口文書)

山寺村
やまでらむら

[現在地名]山元町山寺

南は当村分の山下やました町をもって麻生原あそうばら村、北は鷲足わしあし村、東は太平洋。本村東方海沿いに花釜はながま、その北方に牛橋うしばしの字地がある。正保郷帳では田九二貫二二〇文・畑一〇貫四八一文。年末詳の「宇多亘理風土記」(「山下村誌」所収)では、田一〇二貫一二四文・畑九貫九一文で、人頭五六、うち村住居一二・町住居四四、馬六四。

山寺村
やまでらむら

[現在地名]須賀川市西川にしかわ陣場町じんばまち坂の上町さかのうえまち西の内町にしのうちまち西田町にしだまち

中宿なかじゆく村の西、釈迦堂しやかどう川の北岸台地に立地。村名は主集落の南の山王さんのう山上に米山べいさん寺と称する古刹があったことに由来するという。野川本「藤葉栄衰記」によれば、天正一七年(一五八九)伊達政宗が須賀川城攻めで当地の山王山脇に本陣を構えたが、当時「館といふものなくあさましき百せう家ばかりにて、家らしきは祠官渡辺淡路守が宅ばかり」であったとある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に山寺とみえ、高二五六石余、大塚大郎介の知行地

山寺村
やまでらむら

[現在地名]糸魚川市山寺

根知ねち川右岸にあり、北は大神堂だいじんどう村、対岸は山口やまぐち村・別所べつしよ村。天正一一年(一五八三)五月二日の西片房家寄進状(金蔵院蔵)によれば、「山寺御領分之内棟役段銭」が水穂みずほ(千手院)に永代寄進されている。金蔵こんぞう院があったための村名であろう。正保国絵図に高四六石余とある。寛文七年(一六六七)の高帳によれば、本田高五四石四斗余、古新田・新田高一石一斗余、捨たり高五石三斗余で、高持百姓一二、除地として千手院の二〇石がある(糸魚川市史)

山寺村
やまでらむら

[現在地名]広神村並柳なみやなぎ 山寺

小屋柄こやがら川沿いの村。正保国絵図に村名がみえる。天和三年郷帳では高二四石九斗余。宝暦五年(一七五五)村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では家数二・人数一三、馬一。

山寺村
やまでらむら

[現在地名]笹神村山寺

安野あんの川の右岸、南のじんヶ峰西麓にあたり、下流北西は山田やまだ村。正保国絵図には村上藩領とあり、高五八石余。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、明和二年(一七六五)の石瀬代官所村々高辻帳(北条一也氏蔵)では大室組に属し、高一一七石二斗余。

山寺村
やまでらむら

[現在地名]板倉町東山寺ひがしやまでら

じようヶ山山中にあり、大熊おおくま川支流が南を西流する。猿供養寺さるくようじ村の東に位置する。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に「山寺猿供養村」とあり、高四九九石一斗余。天和三年郷帳では高一一〇石余、うち山高一石三斗二合。

山寺村
やまでらむら

[現在地名]上越市西山寺にしやまでら

高住たかすみ村の南、有間ありま川の支流桑取くわとり川の左岸に位置。正保国絵図によれば高四七石余。天和三年郷帳では六六石六斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報