円覚寺(読み)えんがくじ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「円覚寺」の意味・わかりやすい解説

円覚寺
えんがくじ

神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派本山。山号は瑞鹿山。建長寺に次いで鎌倉五山の第2位の禅刹弘安5 (1282) 年北条時宗創建。宋の禅僧無学祖元開山とし,鎌倉禅宗文化の中心的役割を果した。国宝指定舎利殿は永禄6 (1563) 年焼失後,鎌倉尼五山の1つである太平寺仏殿を移したもので,宋の禅刹建築様式を伝える貴重な遺構。国宝の円覚寺梵鐘のほか『仏光国師像』など鎌倉時代の遺品が多い。境内庭園史跡名勝に指定されている。

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百科事典マイペディア 「円覚寺」の意味・わかりやすい解説

円覚寺【えんがくじ】

鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の本山。1282年北条時宗により無学祖元を開山として創建された。鎌倉五山第2位の名寺であったが,しばしば火災にあい,室町中期以後衰退した。室町時代唯一の遺構である舎利殿は国宝で,唐様建築の純粋な形式を残す。ほか国宝の梵鐘,重要文化財の祖元画像,境内図,時宗書状などがある。
→関連項目江尻小山田荘鎌倉五山唐様義堂周信釈宗演浄智寺宗淵富田荘西田幾多郎

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旺文社日本史事典 三訂版 「円覚寺」の解説

円覚寺
えんがくじ

神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の総本山。鎌倉五山の第2位
1282年執権北条時宗が南宋の無学祖元を開山として建立。建長寺と並び代々北条氏の保護をうけ,関東の臨済宗の中心となる。舎利殿は禅宗様建築の代表的遺構として有名。洪鐘その他重要な文化財が多い。

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デジタル大辞泉 「円覚寺」の意味・読み・例文・類語

えんがく‐じ〔ヱンガク‐〕【円覚寺】

神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の大本山。山号は瑞鹿山。開創は弘安5年(1282)、開山は無学祖元、開基は北条時宗鎌倉五山の第二位。入母屋造いりもやづくの舎利殿と梵鐘は国宝。

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精選版 日本国語大辞典 「円覚寺」の意味・読み・例文・類語

えんがく‐じ ヱンガク‥【円覚寺】

神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派大本山。山号は瑞鹿山。鎌倉五山第二位。弘安五年(一二八二)北条時宗の創建で、宋僧無学祖元の開山。一重裳階付入母屋造りの舎利殿と梵鐘は国宝。

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デジタル大辞泉プラス 「円覚寺」の解説

円覚寺

神奈川県鎌倉市にある寺院。臨済宗円覚寺派本山。山号は瑞鹿山。1282年、北条時宗が無学祖元を開山として創建。鎌倉五山のひとつとして栄える。舎利殿、梵鐘は国宝に指定。

円覚寺

青森県西津軽郡深浦町にある真言宗醍醐派の寺院。807年創建とされる。薬師堂内厨子は国の重要文化財に指定されている。

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事典 日本の地域遺産 「円覚寺」の解説

円覚寺

(神奈川県鎌倉市山ノ内8)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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事典・日本の観光資源 「円覚寺」の解説

円覚寺

(青森県西津軽郡深浦町)
あおもり魅力百選」指定の観光名所。

円覚寺

(神奈川県鎌倉市)
かながわ未来遺産100」指定の観光名所。

円覚寺

(神奈川県鎌倉市)
鎌倉五山」指定の観光名所。

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世界大百科事典 第2版 「円覚寺」の意味・わかりやすい解説

えんかくじ【円覚寺】

沖縄県那覇市にあった臨済宗妙心寺派の寺。山号は天徳山。1492年に尚真王が父尚円追福のため首里城北側に起工し,94年に完成。開山は南禅寺46世椿庭海寿の法孫,芥隠承琥。95年に仏殿の右側に照堂を建て正統の神主(位牌)を奉安したが,1728年には仏殿を宗廟とした。王家の香華所として琉球第一の禅刹を誇った。役知は1672年に60石と定まり,95年に40石加賜され寺院の最高となった。伽藍の修補などは1588年以降たびたびなされ,1721年に火災にあった際にも同年中に仏殿が再建された。

えんがくじ【円覚寺】

鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の大本山。山号は瑞鹿山。北条時宗が弘安の役直後の1281年(弘安4)に建て,翌年無学祖元を開山に迎えて開堂の法要を営んだ。中国の径山(きんざん)を模した左右対称の宋風の伽藍配置で,本尊は盧遮那仏。83年,時宗は幕府の祈願所とし,富田荘(愛知県)と亀山郷(千葉県)の土地を寄進している。時宗の死後,境内に廟所の仏日庵が成立し,つぎの執権貞時の廟所無畏堂も仏日庵に設けられて,北条氏の私寺的性格を強めたが,一方,1308年(延慶1)定額寺となり官寺の列にも加えられている。

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日本歴史地名大系 「円覚寺」の解説

円覚寺
えんがくじ

[現在地名]黒石市乙徳兵衛町

保福ほふく寺の東にあり、照林山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。弘前円明えんみよう寺の縁起によれば、親鸞の弟子浄信が開いた油川あぶらかわ(現青森市)の照林山明行みようこう寺の六世念西坊頼英が、慶長一一年(一六〇六)寺を弘前に移して円明寺と号し、八世念西が明暦元年(一六五五)黒石に隠居し、翌二年輪長庵を開き、寛文一〇年(一六七〇)二代西玄の時円覚寺の寺号を許されたという(新撰陸奥国誌)

円覚寺
えんかくじ

[現在地名]深浦町深浦 浜町

深浦駅から南へ約二キロのはま町にある。観音橋を渡って左折し老杉・巨木の林立する場所。壮麗な仁王門を入れば中央に澗口まぐち観音堂があり、この名は港の入口に位置することに由来するという。左に金毘羅堂(護摩堂)、右に薬師堂がある。円覚寺はこれらの総称。春光山と号し、真言宗醍醐派。本尊は三三年ごとに開帳する十一面観世音像。

観音堂は坂上田村麻呂が大同二年(八〇七)に創立したと伝える(「神社微細社司由緒調書上帳」最勝院蔵)

円覚寺
えんがくじ

[現在地名]君津市小市部 橋戸沢

高丘の麓に位置する。土地は高燥で、南と西は緑野や市街を見下ろし眺望絶佳である。千光山と号し、曹洞宗、本尊は虚空蔵菩薩。境内七千八三三坪。駿州有渡楞厳うどりようごん(現静岡県清水市)の末寺で小本寺であった。慶長九年(一六〇四)久留里藩主土屋忠直が開創し、塞州文充を開山として寺領五〇石を寄進、香華院とした。同年の正月二四日付土屋忠直書状(円覚寺文書)に縁岳寺とみえる。文充は忠直の叔父で勅賜仏光普照禅師と号した。

円覚寺
えんかくじ

[現在地名]鎌倉市山ノ内

建長寺の北西にある。瑞鹿山円覚興聖禅寺といい、臨済宗円覚寺派本山。本尊宝冠釈迦。開山無学祖元、開基北条時宗。鎌倉五山の一つ。

「仏光録」によると、弘安五年(一二八二)開堂供養が行われ、この時には仏殿・僧堂・庫院が建ち、本尊は盧遮那仏であったという。開山祖元は同二年来朝、初め建長寺に住したが、当寺開堂に伴い開山として迎えられた(元亨釈書)。開堂の翌年、北条時宗は将軍家祈祷所となし、尾張国富田とみた庄・同富吉とみよし加納、上総国畔蒜南あびるみなみ庄内亀山かめやま郷を寄進(同年三月二五日「北条時宗加判執事奉書」・同七月日「北条時宗申文」・同七月一六日「関東下知状」県史二)。創建当初の様子は、同六年の円覚寺年中寺用米注進状・円覚寺米銭納下帳(同書)によってうかがわれる。境内には仏殿・土地堂・衆寮・祖堂・行堂・客殿・延寿堂などが建ち、また僧一〇〇人、行者人工一〇〇人、承仕役人など二〇人ほか計二六八人を擁するほどの規模を有し、年中寺用米として一千三七〇石余が記される。時宗は同七年三月二六日には尾張国得重とくしげ保から当寺斎料潤月米として一〇〇石の納入を命じている(「北条氏執事奉書」同書)。同年四月時宗は没するが、その後も北条氏の外護を得て発展を続けた。

弘安八年頃に華厳塔が創建されたらしい(「黄梅院華厳塔再建奉加帳」県史三など)。同一〇年・正応三年(一二九〇)火災となり、また永仁元年(一二九三)鎌倉は大地震に見舞われた(北条九代記など)。この復興のため同年六月二五日に北条貞時は造営料所として尾張国篠木しのき庄地頭職を寄進(「北条貞時書下」県史二)。この造営は同四年には一段落ついたらしく、供養が修せられている(北条九代記など)。同六年一〇月一七日の北条貞時下知状(県史二)によると、越前国山本やまもと(現福井県鯖江市)も造営料所となっている。正安三年(一三〇一)梵鐘鋳造。しかし正和五年(一三一六)鎌倉は一ヵ月近く地震が続き、当寺も罹災(武家年代記裏書、白雲東明和尚語録)、当時住持は東明慧日であったが、文保元年(一三一七)慧日が寿福じゆふく寺へ移る以前に仏殿・方丈・仏日ぶつにち庵が復興された(同語録)。「北条九代記」によると、翌二年にも当寺は焼失。元亨二年(一三二二)法堂造営、これは翌年の北条貞時十三年忌仏事の一つとして行われた(「北条貞時十三年忌供養記」県史二)。当寺において修せられた北条貞時十三年忌供養には、住持霊山道隠ほか僧衆三五〇人が参加しているが、これは建長寺三八八人に次ぐ(前掲供養記)

円覚寺
えんかくじ

[現在地名]福知山市字土師 上ノ段

山号妙智山、曹洞宗、本尊観世音菩薩。

「丹波志」に「福智山久昌寺末、開山大越和尚、慶長十三戊申建立、境内山林藪トモ、南北五十間東西三十間村除、本堂庫裡トモ九間半四間、鎮守、文珠堂」とある。

円覚寺
えんかくじ

[現在地名]右京区嵯峨水尾宮ノ脇町

粟田山と号し、浄土宗。本尊薬師如来。古くは水尾山みずおさん寺と称した。開基は明らかでないが、清和天皇が譲位後の元慶四年(八八〇)三月一九日に、「巡幸大和摂津名山仏、廻御水尾山寺」、同年八月二三日「遷水尾山寺、御嵯峨棲霞観、以水尾有造仏堂也」とある(三代実録)。しかし病のため洛東の円覚寺(右大臣藤原良相の粟田山荘内の仏院)に移り、同年一二月四日に没した。

円覚寺
えんかくじ

[現在地名]柳井市大字阿月

浄土真宗本願寺派。瑞松山と号し、本尊阿弥陀如来。

「注進案」によれば、寛永六年(一六二九)芥川惣右衛門尉長之(法名長忍)が本願寺一〇世証如より寺号、木仏安置を許されたのに始まる。寺地として畠一反七畝二五歩、高五斗八合を除地されていた。

円覚寺
えんかくじ

[現在地名]宿毛市宇須々木

宿毛湾を見下ろす丘陵斜面にある。曹洞宗で、江海山と号し本尊阿弥陀如来。江戸時代には土佐郡潮江うしおえ(現高知市)真如しんによ寺末で、宿毛の東福とうふく寺預であった(南路志)

一条房家夫人の創立と伝え、もとは長福ちようふく寺といった。天正一八年(一五九〇)の藻来津村宇須々木村地検帳に長福寺がみえ、宝永(一七〇四―一一)頃成立の「土佐州郡志」にも長福寺とあるので、改称はそれ以後か。寺の歴史などは未詳だが、明治四年(一八七一)廃寺となった後、同一三年愛媛県の興禅こうぜん(現南宇和郡御荘町)を本寺として復興された。

円覚寺
えんがくじ

[現在地名]博多区御供所町

臨済宗妙心寺派、瑞松山と号し、本尊阿弥陀如来。寛永一三年(一六三六)御供所ごくしよ町東側の聖福しようふく寺境内に再建され、塔頭の一つになった。寺伝によれば、大宰府の府学堂の音博士で鎮西奉行官を兼職していた藤原道信が剃髪して道如と号したが、彼の死後一門によって博多千磐浜に建立されたのが始まりという。天福元年(一二三三)には円爾(聖一国師)が入宋のために当寺に滞在している(聖一国師年譜)

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