山中城跡(読み)やまなかじようあと

日本歴史地名大系 「山中城跡」の解説

山中城跡
やまなかじようあと

[現在地名]三島市山中新田、田方郡函南町城山

箱根はこね山西麓、標高五八〇メートルに位置する戦国時代末期の城跡。国指定史跡。小田原北条氏によって本城である相模小田原城の西方を守備する国境警備の城、いわゆる境目の城として築城された。したがって地域支配の政治的な役割をもつ城とは異なり、きわめて軍事的要素の強い山城である。城郭の範囲は東西約四〇〇メートル・南北約九〇〇メートルで、面積は約二五万平方メートルと推定され、南西方向に延びた細長い丘陵を利用して築城されているが、丘陵の南側は比高一六〇メートルものV字状渓谷をなす急崖で、南側は複雑に開析された丘陵地形であり、まさに要害の地に位置している。山中城の位置する場所は、箱根(東海道)から韮山にらやま(現韮山町)への道の分岐点で要衝であり、城内に道路を取込んだ曲輪の配置は小山おやま町と神奈川県南足柄みなみあしがら市にまたがる足柄城とともに、街道を封鎖する関所的な役割を担っていたと考えられる。当城の創築は明らかではないが、後述するように永禄一二年(一五六九)の史料に当城がみえることと、発掘調査による出土遺物の年代から永禄年間と推定されている。

「家忠日記増補追加」に「深沢・山中十余箇所(ノ)(々)ニ兵ヲ留テ」とあり、永禄一二年北条氏康はさつた(現清水市・由比町)に陣して武田信玄と戦ったが、徳川家康の駿河出兵により信玄が兵を引くと、蒲原かんばら(現蒲原町)善徳寺ぜんとくじ(現富士市)および当城などに守備の兵をとどめて相模小田原に帰陣している。元亀元年(一五七〇)五月沼津に在陣した信玄は当城まで出陣した北条氏政を攻撃したが、北条方は城外に出なかった(三月三日「武田信玄書状写」歴代古案)。天正一五年(一五八七)一一月八日、北条氏は当城の普請をするため、桑原くわはら(現函南町)の百姓の中から一人を人足として雇うこととし、鍬・簀を持参のうえ一二日から一〇日間普請をするよう命じ、雇賃六〇文(永楽銭)は松田康長より受取るよう指示している(「北条家朱印状」森文書)

山中城跡
やまなかじようあと

[現在地名]岡崎市舞木町・羽栗町

急峻な山波に一際高く松林の目立つ標高二〇四メートルの山頂にある。通称城山しろやまという。城跡の北麓は奈良―平安期の古道で、その後通称鎌倉街道が通った。また現西尾市・幡豆はず吉良きら町方面へ至る吉良道、現蒲郡市方面へ至る西郡にしのこおり道、現額田ぬかた幸田こうた町方面へ至る大草おおくさ道へ至る諸道の分岐点に近く、交通・軍事上きわめて重要な要地であった。

大永四年(一五二四)岡崎城を築城した西郷氏の孫大草城(現幸田町)城主西郷信貞は、岡崎城と山中城の守りを固め松平八代清康に反抗し、矢作川東南地域を制覇しようとした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「山中城跡」の解説

やまなかじょうあと【山中城跡】


静岡県三島市山田新田、田方郡函南町桑原にある城跡。永禄年間(1558~70年)に北条氏康によって、本拠地である小田原の西の防備を固めるため、箱根山の西山麓、標高580mの東海道脇の斜面に造られた。東西1.7km、南北2.6kmの広大な範囲に、本丸・二の丸・三の丸・岱崎(だいざき)出丸などが配置されていた。現在、土塁と堀跡が良好に残り、風化を避けるため盛り土と芝で保護されている。発掘調査により、空堀の底に高さ1.8m前後の土手状の畝を掘り残した障子堀と呼ばれる後北条氏独特の堀の実態が明らかになった。北条氏政の時代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、城は改修されたが、結局間に合わず、1590年(天正18)の小田原攻めで、豊臣方の7万の軍勢に攻められ、北条氏勝、松田康長・康郷、間宮康俊らが奮戦したが、半日で落城。三の丸跡にある宗閑寺には戦いの犠牲者が葬られている。1934年(昭和9)に国の史跡に指定され、現在は山中城跡公園になっている。JR東海道新幹線ほか三島駅から沼津登山東海バス「山中城跡」下車、徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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