山上憶良(やまのうえのおくら)(読み)やまのうえのおくら

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

山上憶良(やまのうえのおくら)
やまのうえのおくら
(660―?)

奈良時代の官人、歌人没年は733年(天平5)あるいはその数年後以内。歌集『類聚歌林(るいじゅうかりん)』の編者出自は不明。百済(くだら)の渡来人とする説もあるが確かでない。701年(大宝1)遣唐使少録。ときに無位無姓(続日本紀(しょくにほんぎ))。これ以前の閲歴は不明だが、下級官人であり持統(じとう)天皇の紀伊(和歌山県)や吉野(奈良県)への行幸にも従行したか(万葉集)。唐からの帰国は707年(慶雲4)か。714年(和銅7)正六位上から従(じゅ)五位下に進み、716年(霊亀2)伯耆守(ほうきのかみ)、721年(養老5)皇太子(後の聖武(しょうむ)天皇)の侍講者(続日本紀)。726年(神亀3)ころ筑前(ちくぜん)守、731年(天平3)ころ帰京(万葉集)。優れた学識により遣唐使・侍講者に抜擢(ばってき)されたが、弱小氏族ゆえに従五位下・地方国守どまりとなった。『万葉集』に残る作品は和歌75首(長歌11首、短歌63首、旋頭歌(せどうか)1首)、漢詩文12編(散文10編、詩2編)。作品数には異説もある。作品の大部分は728年以後6年間のもの。これは大宰府(だざいふ)文壇とくに大伴旅人(おおとものたびと)を知り詩心を刺激されたことによるという面が強いが、風雅を指向する彼らと異なり憶良の関心は別のところにあった。解脱(げだつ)でなく塵俗(じんぞく)へと説く「令反惑情歌(まとへるこころをかへさしむるうた)」(巻5)、現実苦のなかであえぐのが人間だと確認する「世の中を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」(巻5 貧窮問答歌・反歌)、子への愛執こそ人間の証(あかし)と主張する「思子等歌(こらをおもふうた)」(巻5)、そのほか「哀世間難住歌(よのなかのとどみかたきことをかなしぶるうた)」(巻5)、「沈痾自哀文(ぢんあじあいぶん)」(巻5)など、仏教でいう四大苦(生老病死)を背負って生きていかなければならない、自身を含めた人間・人生を執拗(しつよう)に追究し、人間存在の悲しさ・いとおしさを訥々(とつとつ)とした口調で歌い上げる。花鳥風月や恋愛とは無縁で、当時の貴族和歌の世界とは異質の問題意識、真率な姿勢、大陸文化への深い造詣(ぞうけい)と深い人間洞察に基づく思想的に厚みのある作品が憶良を孤高の存在にしている。それゆえにまた真価発掘近代を待たなければならなかった。

[遠藤 宏]

『高木市之助著『日本詩人選 大伴旅人・山上憶良』(1972・筑摩書房)』『中西進著『山上憶良』(1973・河出書房新社)』『村山出著『山上憶良の研究』(1976・桜楓社)』

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