小松寺(読み)こまつじ

日本歴史地名大系 「小松寺」の解説

小松寺
こまつじ

[現在地名]千倉町大貫

字小松の山中にあり、参道・境内には杉の老樹が茂る。檀特山と号し、本尊は木造薬師如来立像(九世紀の作とされ、県指定文化財)。真言宗智山派。役小角の開創と伝え、延喜年間(九〇一―九二三)安房国司の小松正寿が伽藍を整え、檀特寺と号したという。かつては東の高野山と称し、安房・上総両州の民が没すると石塔を当寺に建てて回向したとされる。応安七年(一三七四)銘の梵鐘があり、「房州朝平南郡巨松寺」と刻されている。

小松寺
こまつじ

[現在地名]常北町上入野

白雲はくうん山の麓に位置し、山門は宇都宮街道に東面して建つ。白雲山普明院と号し、真言宗智山派。本尊は大日如来

寺伝では天平一七年(七四五)の開基という。治承・寿永の内乱の後、平家の家人筑後守貞義が主人の平重盛の遺骨を持ち重盛の内室とともにこの地へ来て、常陸平氏の大掾義幹の外護により一宇を建て、一族の後生を弔ったと伝える。当初は念仏三昧の道場であったといい、おそらく天台宗系の庵室であったと思われる。至徳三年(一三八六)佐久山浄瑠璃光じようるりこう寺の三世宥尊が大掾頼幹の招きにより入寺、真言宗佐久山さくやま方の寺として中興した。以後佐久山方の根本道場として中世常陸北部にその教線を伸ばした。

小松寺
こまつじ

[現在地名]関市西田原 小松

西田原にしたわらの中央、小山の東麓に位置する。大慈山と号し、黄檗宗。本尊十一面観音。明治初年の寺院明細帳(県立歴史資料館蔵)などによれば、治承二年(一一七八)小松内大臣平重盛が創建。重盛が国家安泰の祈願所として各国に建立した小松護国寺の一つとされ、寺領五〇石、壮大な伽藍をもつ大道場となったという。現在、美濃加茂市の宝積ほうしやく寺に所蔵されるかつての当寺本尊の十一面観音像は円仁の作と伝え、当初は天台宗であったとも考えられる。

小松寺
こまつでら

[現在地名]福山市鞆町後地

祇園南ぎおんみなみにあり、万年山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊阿弥陀如来開山安国あんこく寺住持曇叟と伝えるが、平重盛手植えの松の伝承があり、その草創は定かでない(あくた川のまき)。南北朝期に、大可島おおがしま城を占拠した伊予勢に対して、北朝方は当寺に陣を置いたことが「太平記」巻二二(義助朝臣病死事付鞆軍事)にみえ、また、観応二年(一三五一)には当寺の雑掌賢性が、尾道浄土じようど寺領得良とくら(現賀茂郡大和町)に介入したため訴えられており(浄土寺文書)、南北朝期にはかなりの大寺であったことが推察される。

小松寺
こまつじ

[現在地名]小牧市小松寺

愛藤山と号し、真言宗智山派。本尊は千手観世音。「府志」によると創建は天平年間(七二九―七四九)。承安三年(一一七三)小松内大臣平重盛が改築し寺領を寄進して小松寺と名付けたという。承久の変の際に兵火のため堂坊焼失し、長く廃寺同様になっていたが、応仁の乱後、全慶が再建した。小松寺・遍照寺宛条書写(正眼寺文書)によれば、天正七年(一五七九)織田信長は小松寺の寺領を安堵し、諸役をいっさい免除した。同一二年小牧・長久手の戦では秀吉方の主陣地となり堂宇を焼失した。

小松寺旧蔵の文禄四年(一五九五)証文(東春日井郡誌)によれば、豊臣秀吉は小松寺門前二三六石の地を小松寺に寄進した。

小松寺
こまつじ

[現在地名]亀岡市千代川町千原

千原ちわら山の山麓にある。金花山と号し、浄土宗、本尊は阿弥陀如来。境内に観音堂があり懸仏形式の石造の十一面観音像を安置する。

寺伝によれば、小松内府平重盛が中国の育王いくおう山へ祠堂金を納め、青竜せいりゆう寺より石造の十一面観音像を贈られ、守本尊としていたが、重盛が寵愛していた妙善にこの像を与え、妙善は故郷の千原村に帰ってこの像を安置し、重盛のゆかりから寺を小松寺と称したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の小松寺の言及

【常北[町]】より

…石塚,那珂西は近世那須街道の宿駅として栄えた。上入野の小松寺は平重盛の菩提を弔うために創建されたと伝え,重盛の守本尊とされる如意輪観音像(重要文化財)が現存する。また石塚の薬師寺には鎌倉時代に造られた薬師如来像(重要文化財)が伝わる。…

※「小松寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android