小方村(読み)おがたむら

日本歴史地名大系 「小方村」の解説

小方村
おがたむら

[現在地名]大竹市小方町小方・小方一―二丁目・立戸たちど一―四丁目・御園みその一―二丁目・御幸みゆき町・防鹿ぼうろく穂仁原おにはら比作ひつくり安条あんじよう八丁はつちよう前飯谷まえいいだに後飯谷うしろいいだに三ッ石みついし町・阿多田あたた

黒川くろかわ村の南に位置し、南は油見ゆうみ木野この両村に接し、西は木野川を隔てて周防国に相対し、東は瀬戸内海に面して阿多田島、ひめ小島(現山口県岩国市)かぶと島などの諸島を望む。西北は山が連なり、沿岸部の平地を通る山陽道沿いに町屋が展開する。古代遠管おくだ郷の地で、遠管駅(「延喜式」兵部省)の所在地に比定される。条里制の遺構は確認されないが、一の坪いちのつぼ地名が残る。元暦年間(一一八四―八五)の藤原光家の「浄照房集」に、

<資料は省略されています>

とある「おほかた」は当地のことであろう。建長五年(一二五三)四月日付の新日吉小五月流鏑馬定文案の紙背に記された伊都岐島社社領証文目録(新出厳島文書)に「小方」とみえ、寿永三年(一一八四)頃から厳島神社領であった。なお康応元年(一三八九)の「鹿苑院殿厳島詣記」には「おかた」、「陰徳太平記」には「小潟」、元和五年(一六一九)の安芸国知行帳には「おかたはた村」、同六年の上田家知行目録(上田家文書)には「岡田波田村」とみえる。「芸藩通志」は「古は小方畑村と称せしと云、緒方とも書けり」と記す。

中世は小方郷と称し、永禄三年(一五六〇)一〇月八日付の「閥閲録」所収河野与三左衛門家文書に「小方之内小瀬」とあり、その郷域は油見・大竹から周防国玖珂くが小瀬おぜ(現山口県岩国市)の周辺にまで及ぶと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報