寺社村(読み)じしやむら

日本歴史地名大系 「寺社村」の解説

寺社村
じしやむら

[現在地名]珠洲市上戸町寺社うえどまちじしや

北方きたがた村の南西にあり、内浦街道が通る。垣内山方清水谷内きよみずやち山田やまだ、浜方側の光真みつざねのほか金社こんしや下番匠しもばんじよう田中たなか永禅寺ようぜんじなどがある。近世初頭はただ郷上戸に属し、天正一一年(一五八三)四月一六日の直郷上戸百姓中宛の前田利家黒印状(上浜文書)では、「寺社分」の者でも田地を耕作している者は惣百姓なみに諸役を勤めよとしている。当地は高照こうしよう寺・永禅寺・上戸気多うえどけた神社など上戸における中世以来の寺社が多く所在したため、元和期(一六一五―二四)検地で上戸三ヵ村の村切が行われた際、村名とされたのであろう。正保郷帳に村名がみえ、高三七四石余、田二二町九反余・畑二町余、新開高五一石余(免二ツ八歩)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高四五一石、免六ツ、小物成は山役二一一匁、鳥役一匁(出来)、網役一二匁、なお敷借本米・利足は一五石余であった(三箇国高物成帳)。安永九年(一七八〇)の百姓数八〇人のうち持高五〇石以上は一人、五石以下は六六人、文政期(一八一八―三〇)には百姓数一二七人中懸作百姓が二九人、安政六年(一八五九)には百姓数一八三人のうち同五四人と著しい増加をみせている(安永九年「百姓持高帳」木下文書など)

寺社村
じしやむら

[現在地名]安田町寺社

南は保田やすだ町、西は江端えばた(現水原町)。古くは地子屋と記す。天正二年(一五七四)九月の安田氏給分帳(北方文化博物館蔵)によれば馬下大膳助ら軍役衆の給地が村内にあり、善住ぜんじゆう寺・福輪ふくりん寺などの寺社領もあった。文禄四年(一五九五)の地子屋村検地帳(米沢市立図書館蔵編年文書所収)には田畠屋敷合せて三三町一反九畝九歩・分米三六八石八斗八升四合とあり、その内訳は上田一五町七反余(分米二〇五石三斗余)・中田四町三反余(四八石一斗余)・下田一町五反余(一三石九斗余)・上畠六町五反余(六五石二斗余)・中畠三畝余(三斗余)・下畠三町三反余(一九石八斗余)・屋敷一町五反余(一五石九斗余)であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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