宮園村(読み)みやぞのむら

日本歴史地名大系 「宮園村」の解説

宮園村
みやぞのむら

[現在地名]耶馬渓町宮園

山国やまくに川上流域のくも八幡神社付近の村で、雲の宮園の意。東はしま村、西は中摩なかま(現山国町)、北は樋山路ひやまじ村。貞和五年(一三四九)五月一三日の藤原貞房田地売券(野中文書)に「奉沽渡 豊前国下毛郡山国郷得永名井堀村内田畠屋敷山野竹林以下事(中略)山国井堀村内除鍛冶屋、外者不残立錐」とみえる。井堀いぼり鍛冶屋かじやの地名は、今も宮園の小字名にあることから、南北朝時代に井堀村の呼称があったことが知られる。貞和六年一二月日の大友道性安堵申状(新田文書)に「同郡山国江淵村并得王丸名内田畠屋敷山野犬丸名田地」とみえ、江淵えぶち村は江戸時代は宮園村に含まれた。戦国時代はひと城主中間氏の支配を受けたといわれる。

小倉藩元和人畜改帳では宮園村は高二九二石余で、このなかにくもみや社領三石余、一ッ戸城跡分御蔵納八石余が含まれている。家数二八(うち百姓一二・名子六・牢人三・社人一)・人数七九、牛馬各四。

宮園村
みやそのむら

[現在地名]久留米市山本町豊田やまもとまちとよだ

耳納みのう山地かぶと山の北東麓に位置する。北麓に千光せんこう寺があり、その北に宮園村が描かれる。山辺やまべ往還の南に宮園分畠・千光寺分畠・中泉なかいずみ分畠・西泉にしいずみ分畠が入組み、千光寺分畠は日田街道沿いにもあった(上三郡絵図)宮薗村とも記す。「宇佐大鏡」にみえる「宮薗畠許 在家四五家」は当地に比定される。「筑後将士軍談」によると村内の千光寺門前は平礼石ひられいし村と称したという。元禄国絵図に宮薗村とみえ、本高五九石余。「在方諸覚書」では古高五〇石・役高三四石。寛政元年(一七八九)の撫斗代七斗四升、人数七、馬一六(上三郡取調手鑑)

宮園村
みやぞのむら

[現在地名]荻町新藤しんどう

藤渡ふじわたり川北岸の標高五三〇メートル前後の台地上にある。応仁三年(一四六九)垣田氏の家の傍らにあった社を垣田秀景の霊夢によって宮園の地に移し、祠を橘木たちばなき社と称したと垣田氏系譜(垣田家文書)の秀守の項にみえる。正保・元禄・天保の各郷帳に村名がみえない。寛文四年(一六六四)当村の勘左衛門ら六人がキリシタンとして捕らえられ、肥前長崎へ送られた(荻町史)

宮園村
みやぞのむら

[現在地名]緒方町久土知くどち 一の宮いちのみや観音室かんのんむろ石仏いしぼとけ

上自在かみじざい村の南、緒方川南岸台地上にあり、南東を清田きよた川が北東流する。元禄・天保両郷帳に村名はみえず、久土知村の内に含まれるとも考えられる。

宮園村
みやぞのむら

[現在地名]竹田市いま

菅生組のほぼ中央に位置し、西は今村、北は楠野くすの村。正保郷帳では大戸ねぎ郷に属し、田方九石余・畑方三四石余。弘化物成帳では菅生組のうち、村位は中、免三ツ四分、田七石余(八反余)・畑三八石余(六町二反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田はなく、開畑二斗余(四反余)がある。旧高旧領取調帳では高四九石余。

宮園村
みやぞのむら

[現在地名]七城町清水きよみず

夜間やけ村の西にある水田地帯。もと菊池川は当村の南西で北へ大きく蛇行していたが、河川改修によって今は西へまっすぐに流れている。天正一七年(一五八九)検地帳に田一一町六反二畝余・畠五町八反八畝余・屋敷一町三畝余、分米一九九石三斗余とある。近世は河原手永に属し、文化一一年(一八一四)頃の河原手永手鑑に高二〇三石三斗余、田九町一反七畝余・畑五町二反九畝余、竈数一七・人数五四、駄馬一一、氏神八幡宮とある。

宮園村
みやぞのむら

[現在地名]益城町宮園

西は安永やすなが村、東は木山町きやままち村と接する。慶長国絵図に村名がみえ、近世は沼山津手永に属した。正保郷帳では田五八六石五斗余・畑三六一石四斗余。文化八年(一八一一)の沼山津手永略手鑑では高一千二五二石一斗余、田四二町六畝余・畑五三町四反四畝余で商札四、質屋札・造酒本手・馬口労札・家根葺札各一がある。

宮園村
みやぞのむら

[現在地名]宇目町小野市おのいち 上小野市かみおのいち

小野市村の西に位置。小野市村から田原たばる村へ至る道が通る。正保郷帳に村名がみえ、田高八石余・畑高六石余、宇目郷に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報