宮保村(読み)みやぼむら

日本歴史地名大系 「宮保村」の解説

宮保村
みやぼむら

[現在地名]松任市宮保町・法仏町ほうぶつまち七郎町しちろうまち千代野西ちよのにし一―四丁目・千代野東ちよのひがし三―四丁目・東柏町ひがしかしわまち東美沢野町ひがしみさわのまち

手取川扇状地の扇端部にあたり、米永よねなが村の西に位置。山島やまじま用水の分流千々ちじ川・うち川・河原かわら川が流れる。古くは笠間かさま村と一村で、同村を西保と称するのに対し、当村は東保と称したという(宮保の歴史)中世には宮保が成立。正保郷帳では高三千三〇五石余、田方二〇八町一反余・畑方一二町二反余。

宮保村
みやぼむら

[現在地名]金沢市宮保町

金腐かなくさり左岸に位置。東は同川を挟んで疋田ひきだ村。中世は倉月くらつき庄の内。「天文日記」天文五年(一五三六)一〇月一二日条に嵯峨西芳さがさいほう(現京都市西京区)領「加州宮保・近岡村・供料田村・諸江村」四ヵ村の知行回復申付依頼があり、本願寺証如が同月一四日これを申付けている。正保郷帳によれば高四五四石余、田方二八町四反余・畑方一町八反余。

宮保村
みやのほむら

[現在地名]富山市宮保

神通川の支流川の左岸に位置し、北は悪王寺あくおうじ村。村名は延喜式内社と伝える熊野神社所在地に由来するという(越中志徴)。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。正保郷帳では宮ノ保村とみえ、高四五九石余、田方三〇町一反余・畑方四反余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高三四九石、免四ツ八歩、小物成は野役三三匁・鮎川役一匁。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報