宗良親王(むねながしんのう)(読み)むねながしんのう

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

宗良親王(むねながしんのう)
むねながしんのう
(1311―?)

「むねよし」とも読む。後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。母は二条為世(ためよ)の娘為子。延暦(えんりゃく)寺に入り尊澄法親王(そんちょうほうしんのう)と称す。1330年(元徳2)天台座主(てんだいざす)となる。31年(元弘1)元弘(げんこう)の変が起こると後醍醐の討幕運動に参加、笠置(かさぎ)山(京都府相楽(そうらく)郡笠置町)にこもったが捕らわれて讃岐(さぬき)(香川県)へ流された。33年(元弘3・正慶2)幕府が滅びると帰洛(きらく)してふたたび天台座主となる。しかし建武新政が崩壊すると、還俗(げんぞく)して宗良親王と改名、翌38年(延元3・暦応1)、後醍醐天皇の南朝再建策の一つ、遠江(とおとうみ)を根拠地とするため、奥州を目ざす北畠親房(きたばたけちかふさ)らとともに伊勢(いせ)国大湊(おおみなと)を出発、途中暴風雨にあうが、親王は幸運にも目的の遠江に漂着した。のち信濃(しなの)を中心に各地で転戦し、52年(正平7・文和1)南朝軍の武力行動が各地で始まると征夷(せいい)大将軍となり、諏訪(すわ)氏らを率いて碓氷(うすい)峠を越える。74年(文中3・応安7)吉野に戻り、77年(天授3・永和3)再度落飾、80年(天授6・康暦2)南朝方君臣和歌新葉(しんよう)和歌集』を撰(せん)した。和歌をよくし、家集に『李花(りか)集』がある。『続史愚抄(ぞくしぐしょう)』などによれば、85年(元中2)8月に没した。

[黒田弘子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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