安養院跡(読み)あんよういんあと

日本歴史地名大系 「安養院跡」の解説

安養院跡
あんよういんあと

[現在地名]鹿児島市清水町

南方みなかた神社(諏訪神社)の向いに所在した真言宗寺院。護国山大楽寺と号し、本尊は愛染明王。山城醍醐寺三宝さんぼう院末であった(「三宝院末寺目録」醍醐寺文書)。諏訪神社の別当寺東福寺とうふくじ城を居城とした島津氏久は山門やまと院から諏訪神社を移し、同社の別当寺として当寺を創建したという。開山鑁阿は越前国の人で、康永三年(一三四四)畠山季随が山門院に下向したとき祈願師として招請されたという(三国名勝図会)。なお多賀たが山の付近に東福寺という開山年不明の寺があった。文保三年(一三一九)二月五日、島津忠宗は東福寺領内で草木を刈ったり、牛馬を放したり、殺生を禁止する旨の禁制(旧記雑録)を出している。

安養院跡
あんよういんあと

[現在地名]太宰府市観世音寺一丁目

貞和七年(観応二年、一三五一)正月日付の安養院雑掌良賢の申状写(太宰府天満宮文書/南北朝遺文(九州編)三)によれば、良賢は筑前・肥前両国の当知行地安堵を足利直冬に申請し、同年一月二三日付で裏書安堵を得ている。ここに記された所領の継承から、この安養院は観世音寺子院に比定されている。また戦国時代と推定される五月三日付観世音寺西永坊栄胆申状(長尾山年譜/大宰府・太宰府天満宮史料一四)に「覚仏(武藤資頼)御塔中所者安養院」とあり、少弐資頼の塔所であった。

安養院跡
あんよういんあと

[現在地名]金砂郷村赤土

あさ川の支谷中沢なかざわ川中流の東山の南向き斜面にあり、石垣・石仏などを残す。真言宗で日月山観音寺と号した。「新編常陸国誌」に「上利員鏡徳寺末、(中略)除地一石五斗三升三合」とみえる。その跡地は水府煙草起源の地として知られ、慶長一三年(一六〇八)安養院住職の宥範が煙草の種子を江戸より持帰り、宥範の弟子金田次兵衛に境内で耕作させたのが始まりと伝える。

安養院跡
あんよういんあと

[現在地名]梓川村大字倭 横沢

横沢よこさわの北部にあって、現在、墓地。大門跡に六地蔵が残存。径奥山、知恩院末、本尊阿弥陀如来像、慶長・元和年代(一五九六―一六二四)の作。文禄年代(一五九二―九六)成立の筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附に「一五百三拾四石七斗五升三合此内拾石ハ安養院領 横沢村」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報