安来(市)(読み)やすぎ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「安来(市)」の意味・わかりやすい解説

安来(市)
やすぎ

島根県東端にある市。1954年(昭和29)安来町と荒島、赤江、飯梨(いいなし)、大塚、島田の5村が合併して市制施行。2004年(平成16)能義(のぎ)郡広瀬町(ひろせまち)、伯太町(はくたちょう)を合併(なお、この合併で能義郡は消滅)。北は中海(なかうみ)に臨み、東は鳥取県に接する。中海に沿ってJR山陰本線と国道9号、山陰道(安来道路)が並走し、市西部を国道432号が走る。市域を北流する飯梨川と伯太(はくた)川の下流には安来平野が広がり、県下有数の農業地域を形成する。中心の安来は古代の安来郷、中世の安来荘(しょう)の地。古くから港として発達、近世は西廻(にしまわり)航路の寄港地で、中国山地のたたら製鉄による玉鋼(たまはがね)や松江藩の蔵米の積出し港、隠岐(おき)の海産物の陸揚げ港、山陰道の宿場町として繁栄した。1899年(明治32)雲伯鉄鋼合資会社(現、プロテリアル安来工場)が設立された。砂鉄から生産される特殊鋼はヤスギハガネとして広く海外へ輸出される。福井、飯島などの地区工業団地がある。和鋼博物館(わこうはくぶつかん)は古来の製鉄法の技術、資料、文献を収集する。赤江は近郊農村として園芸農業が盛んでイチゴなどの出荷が多い。荒島、飯梨ではナシ、島田ではナシやタケノコの栽培が行われる。広瀬は中世は出雲(いずも)の中心で、守護は代々旧町域北東部の富田城(とだじょう)(月山(がっさん)城)を根拠地とした。1478年(文明10)ごろ、京極(きょうごく)氏の守護代尼子(あまご)氏が富田城を占拠し中国全域に勢力を拡大したが、のちに毛利(もうり)氏に滅ぼされた。江戸時代、藩政の中心が松江に移るとともに富田は衰微、1666年(寛文6)松江支藩として広瀬藩3万石が設置された。現在は米作のほか、乳牛・和牛飼育、花卉(かき)園芸、林業が行われる。藩政期に始まる広瀬絣(かすり)は明治期には大阪や東北地方まで販路を広げたが、今日ではわずかに技術保存されている。伯太は、江戸時代は松江藩の支藩母里(もり)藩が置かれた。米作、和牛飼育、茶・チューリップ栽培などが行われる。伝統的な窯業母里焼があり、また江戸時代以来続く母里市が開かれる。

 荒島古墳群、岩舟古墳、仲仙寺(ちゅうせんじ)古墳群、安来一里塚、富田城跡は国指定史跡。清水寺(きよみずでら)の本堂、十一面観音立像など、雲樹寺(うんじゅじ)の四脚門などは国の重要文化財。また、広瀬重要民俗資料収蔵庫にある「東比田の山村生産用具」は国の重要有形民俗文化財。飯梨川左岸には足立(あだち)美術館や国民保養温泉地の鷺の湯(さぎのゆ)温泉がある。荒島古墳群のなかの造山古墳周辺は「古代出雲王陵の丘」として公園化されている。『安来節』は県を代表する民謡。面積420.93平方キロメートル、人口3万7062(2020)。

[江村幹雄]

『『安来市誌』(1970・安来市)』『『安来市誌』上下(1999・安来市)』


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