姫路藩寛延一揆(読み)ひめじはんかんえんいっき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「姫路藩寛延一揆」の意味・わかりやすい解説

姫路藩寛延一揆
ひめじはんかんえんいっき

江戸後期、播磨(はりま)国(兵庫県)姫路藩に起こった全藩一揆多年にわたる年貢増徴に対し、1748~49年(寛延1~2)農民たちが用捨米(ようしゃまい)を要求して立ち上がったもの。姫路藩は山陽道の要地にあり、10万石前後の譜代(ふだい)大名の城地として近世前期以来、頻繁な領主交替が繰り返されていた。1749年酒井忠恭(ただずみ)が入封し定着するまで、その数は9氏に及んだ。これら藩主のたびたびの交替は藩政の一貫性を欠き、ことに年貢の増徴は続き、領民の窮乏は深刻化していた。1741年(寛保1)入封した松平明矩(あきのり)は入部早々から領内に用金令を頻発したが、48年の干魃(かんばつ)、風水害に農民は苦しみ、ことに藩主の転封の予告があって飾東(しきとう)郡農民3000は市川河原に結集し、年貢減免と延納を求めた。しかし藩主の死去と幼主の相続、移封が伝えられるや、翌年にかけて先納金の返還要求も加わって加古(かこ)、印南(いなみ)、飾磨(しかま)、神崎(かんざき)の諸郡に及ぶ全藩一揆へと拡大し、各地の庄屋(しょうや)・豪農層の家々60軒余を打毀(うちこわ)し、藩兵の敗北もあったが、大坂町奉行(まちぶぎょう)の援軍で鎮圧された。重刑となった者は、磔刑(たっけい)2人、獄門(ごくもん)2人、打首3人、遠島11人、重追放13人、中追放3人、軽追放3人などである。

[小林 茂]

『『兵庫県史 4』(1979・兵庫県)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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