女淵村(読み)おなぶちむら

日本歴史地名大系 「女淵村」の解説

女淵村
おなぶちむら

[現在地名]粕川村女渕

深津ふかづ村の北、粕川右岸に位置。戦国期女淵城が当地域一帯の支配拠点となり、しばしば攻防戦があった。天正八年(一五八〇)頃からは小田原北条氏は北爪氏など「地衆」(地侍)を軍役衆に取立てている。同一七年八月五日の北条家奉行人連署奉書(北爪重一氏所蔵文書)は「女淵五郷」を検地の上、給田として宛行う旨を北爪新八郎に伝えている。そして同年一二月一四日には女淵郷内の友成ともなり深津なえしま(現宮城村)の計二〇貫文の地が北爪新八郎に宛行われた(「北条家朱印状」同文書)。また翌年二月二一日の北条家朱印状(北爪文書)では郷内の苗ヶ島・鼻毛石はなけいし(現宮城村)、深津・友成の計一四二貫文の地を北爪将監・同大蔵など合せて二六人の地衆に分給している。この頃北方の苗ヶ島・鼻毛石から深津まで相当広範囲を女淵郷とよんだようである。

寛文郷帳では田方八二一石余・畑方六四四石余、前橋藩領。元禄郷帳でも同藩領、西接する込皆戸こみがいと村と新屋あらや村を分村し、高九三三石余。宝永四年(一七〇七)の五人組改一札(「粕川村誌」所収)によると人数五五一、ほかに医師一、寺四。寛延二年(一七四九)の村明細帳(同書所収)では高一千一二二石余、反別一〇七町五反余、うち田四五町七反余・畑六一町八反余。田のうち二反余は年々川欠け等、四町一反余は水押で永畑、畑は二一町八反余永畑、六反余年年川欠け等になる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報