奥友村(読み)おともむら

日本歴史地名大系 「奥友村」の解説

奥友村
おともむら

[現在地名]遠野市小友町おともちよう

現遠野市の南西端、鷹鳥屋たかとりや川・長野ながの川などの流域沖積地に位置する。小友とも記した。村名はアイヌ語で隠れた豊かな地などを意味するオットモに由来するという(「小友勝蹟志」遠野市立図書館蔵など)。中心集落の奥友(小友町ともよぶ)で鷹鳥屋川と長野川が合流して小友川となり北西流する。集落は奥友のほか長野川沿岸に平清水ひらしみず、鷹鳥屋川の支流藤倉ふじくら川流域に山屋やまや(山谷)荒屋あらや(新屋)などがある。西と南は仙台藩領で、閉伊へい鱒沢ますざわ(現上閉伊郡宮守村)から同藩領気仙けせん郡に向かう道が長野川沿いに走って南端近くの荷沢にざわ(標高四六六メートル)を越え、また西端の五輪ごりん(標高五八一メートル)を越えて同藩領江刺郡に向かう道が通る。荒屋と小友川流域の鮎貝あゆかいに番所が置かれ、奥友町には寛永(一六二四―四四)以降同心などの役人が常駐していた(遠野市史)

当地一帯は平安時代末期には遠野保に含まれたと考えられ、「阿曾沼興廃記」によると、小友郷は文治年中(一一八五―九〇)源頼朝が阿曾沼広綱に与えた遠野一二郷のうち下六郷の一郷であったという。小友郷を本拠地として小友氏が勢力を張った。小友氏の本姓は菊池氏、慶長五年(一六〇〇)喜左衛門のときに阿曾沼広長に反逆し南部氏に属した。山谷長福ちようふく棟札に「閉伊郡遠野小友郷山谷」とみえる(遠野古事記)。なお阿曾沼広長は世田米せたまい(現気仙郡住田町)に身を寄せ、同六年気仙の館主らの支援を得て遠野奪回を図ったが、樺坂かばさか峠で遠野勢に阻止されて退いたという。同峠は南東端近くの貞任さだとう(八八四・二メートル)の南西にあたる。

慶長一七年平清水村一三〇石余が平清水平右衛門に宛行われた(「南部利直知行宛行状」阿曾沼興廃記)。寛永四年奥友村は八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となり、同年の南部利直知行宛行状(三翁昔語)では奥友村高五九一石余、当村のうちとして新屋村(高三五石余)・鮎貝村(高五九石余)が別記される。正保国絵図によると、奥友村高一〇一石余・平清水村高六一石余・山屋村高一〇四石余・荒屋村無所務。元禄十郡郷帳による〆高は奥友村田方九五石余・畑方二四九石余、平清水村田方三斗余・畑方八三石余、山屋村田方七四石余・畑方一七一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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