天部村(読み)あまべむら

日本歴史地名大系 「天部村」の解説

天部村
あまべむら

[現在地名]東山区教業きようぎよう町・たつみ町・長光ながみつ

中世では「あま(アマヘ)(八坂神社文書ほか)近世には「余部」「余辺」(雑色要録・諸式留帳)とも記される。

天部村はもと寺町四条下ル(現下京区)に御免地を拝領、所在していたが、豊臣秀吉御土居おどい構築に先がけ、天正一五年(一五八七)にこの地が大雲だいうん院に与えられ、三条橋東の南北九六間余、東西七六間余の場所へ替地になった(雑色要録)。すなわちここが江戸時代の天部村の地である。これより先、永禄一一年(一五六八)九月、入洛した織田信長は当村の保護のため、軍勢に対しこの村での陣取り乱暴などを禁止した朱印状を発しており、天正一〇年一二月にも豊臣秀吉は同様の趣旨を記した書付を出している(余部文書)

中世の「あまへ」では、祇園ぎおん(現八坂神社)へ地子を納めている者もあり、応永二二年(一四一五)祇園社領地子納帳に「二百八十三文 錦小路北頬、五条坊門万出小路 三郎アマヘ」とみえ、三条橋東へ移転後も、天正一七年、慶長一五年(一六一〇)の祇園検地帳や三条道川成帳などに同様の記載がある(八坂神社文書)。また、永禄八年(一五六五)三好・松永らの戦乱に際して、錦小路にしきこうじ青屋の優婆の買得地の作毛を、一時、「天部図子惣中」として預かったことがある(雑色要録・余部文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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