天草下島(読み)あまくさしもしま

改訂新版 世界大百科事典 「天草下島」の意味・わかりやすい解説

天草下島 (あまくさしもしま)

熊本県西部,天草諸島中最大の島。下島ともいう。面積約571km2。行政上は本渡市の大部分と牛深市および新和五和,苓北(れいほく),天草河浦の5町からなっていたが,2006年合併により苓北町を除き天草市となった。下島の大半は高度200~400mの小起伏の山地で占められ,北東部には緩傾斜丘陵・山麓地が広がる。2条の山系が断続的に北東から南西に走り,浸食谷が発達し,複雑な地形を示す。南西部は浦内浦(羊角湾)の奥深い入江,牛深の沈水海岸で,天草灘西海岸の単調さを富岡の陸繫島が破っている。西海岸には海食の奇岩に天草灘の怒濤の砕ける妙見浦(天・名)の景勝地がある。地質は第三紀層が広く分布し,貨幣石(旧河浦町)を産し,一部に夾炭層があり,かつて良質の天草炭を産した。また西部の旧天草町高浜に流紋岩が変質した天草陶石を産出する。

 有明海に面する旧五和町や南部では縄文・弥生遺跡や古墳が発見されている。平安時代,10世紀初めは,志記(志岐),天草(旧本渡または旧河浦町)が島の一中心をなし,中世には本戸(砥)(現在の本渡)に天草氏,北西部に志岐氏が勢威を振るい,海外貿易をも営み勢力の拡大をはかった。16世紀にキリスト教が伝わり,旧河浦町に1592年(文禄1)天草学林が建てられキリシタン布教の中心となった。島原の乱には幕府軍と信徒との間に富岡城攻防の激戦があった。江戸時代富岡(苓北町)が天領天草の政治の中心であったが明治に入り本渡に移った。

 下島の総農家の半分は0.5ha未満の狭い耕地で自給的農業を営み,サツマイモを飼料とする養豚,肉用牛などの畜産や,飼料作物のほか施設園芸の果樹やレタスなどの野菜の生産がみられる。沿岸には半農半漁の集落が多く,北部沖合漁業の基地富岡のアジ,二江(ふたえ)(旧五和町)のイカ,タコ,ウニ,西海岸の漁港大江,浦内浦の真珠養殖(崎津)などが知られている。これまでの煮干しなど水産食料品製造の地場産業のほか1970年代から繊維,電機などの工場が本渡などに進出している。

 本渡から北~西海岸回りと東部縦貫の国道が通じ,富岡~茂木,鬼池~口之津(島原半島),中田(旧新和町)~諸浦(鹿児島県)間にフェリーが航行し,富岡半島と下島南部は海洋と海岸の美しさから雲仙天草国立公園に属し,富岡城址,大江,崎津の天主堂など天草らしい情緒が漂う。
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デジタル大辞泉プラス 「天草下島」の解説

天草下島

熊本県天草市、天草諸島にある県内最大の島。面積約507.17平方キロメートル。正称は「下島(しもじま)」。東側に位置する天草上島とは本瀬瀬戸を挟み天草瀬戸大橋で結ばれる。天草・島原の乱で蜂起したキリシタンの多くがこの島の出身で、キリシタン墓地、殉教千人塚など関連史跡が多い。天草キリシタン館では国の重要文化財「天草四郎陣中旗」を見ることができる。島西部の岩礁「妙見浦」は国の名勝かつ天然記念物。

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