天童藩(読み)てんどうはん

藩名・旧国名がわかる事典 「天童藩」の解説

てんどうはん【天童藩】

江戸時代出羽(でわ)国村山郡天童(現、山形県天童市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は養正館(ようせいかん)。1830年(天保(てんぽう)1)までは高畠(たかはた)藩と称した。藩主織田(おだ)氏は、織田信長の次男信雄(のぶかつ)の子孫。1767年(明和(めいわ)4)に、上野(こうずけ)国小幡(おばた)藩の藩主織田信邦(のぶくに)が、不敬罪に問われた山県大弐(やまがただいに)の明和(めいわ)事件に連座して蟄居(ちっきょ)処分となり、養子の信浮(のぶちか)が2万石で置賜(おきたま)郡高畠へ転封(てんぽう)(国替(くにがえ))された。所領は陸奥(むつ)国信夫(しのぶ)郡、出羽国置賜郡、村山郡だった。その後信夫郡は収公されて村山郡に替え地され、1830年(天保(てんぽう)1)に城地も村山郡の天童に移し、天童藩が成立した。小藩のため藩財政は常に苦しく、幕末には下級家臣の内職に将棋駒づくりも始め、全国一の生産地となる基礎がつくられた。戊辰(ぼしん)戦争では、当初新政府軍の先導役を務めたが、庄内攻撃を受けて城下町を焼き払われた。その後、逆に奥羽越(おううえつ)列藩同盟に加わって新政府軍と戦ったが降伏。1871年(明治4)の廃藩置県により、天童県を経て山形県に編入された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「天童藩」の意味・わかりやすい解説

天童藩
てんどうはん

出羽(でわ)国天童(山形県天童市)周辺を領有した藩。外様(とざま)。1765年(明和2)、山県大弐(やまがただいに)らの明和(めいわ)事件で連座した上野小幡(こうずけおばた)藩主織田信邦(おだのぶくに)の養子信浮(のぶちか)は、2万石で出羽国置賜(おきたま)郡高畠(たかはた)に入部した(高畠藩)。所領は陸奥(むつ)国の信夫(しのぶ)郡、出羽国の置賜郡、村山郡にわたっていた。その後、領地は替え地によって村山郡に集められ、1830年(天保1)藩主信美(のぶかず)は城地を天童に移した。織田氏は織田信長の次男信雄(のぶかつ)の子孫である。以来信学(のぶたか)、信敏(のぶとし)が継ぎ維新を迎える。天童藩の領地はまとまりがなく、幕府領のほかいくつかの分領と入り組んだ分散状態となっている。藩は財政窮乏を救うため、幕末に紅花(べにばな)専売を計画したが、在地の抵抗もあって成功しなかった。下級武士の内職として将棋(しょうぎ)駒づくりを奨励し、その後の地場産業となったことは有名。戊辰(ぼしん)戦争では維新政府から奥羽鎮撫使(ちんぶし)の先導役を命ぜられ、中老吉田大八(だいはち)がそれを勤めたが、庄内(しょうない)藩の攻撃を受け、城下町は焼き払われ、大八は自刃した。のち奥羽列藩同盟に加盟したが、1868年(明治1)9月降伏。71年廃藩、天童県を経て山形県に入る。

[横山昭男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「天童藩」の意味・わかりやすい解説

天童藩
てんどうはん

江戸時代後期,出羽国村山郡天童地方 (山形県) を領有した藩。明和4 (1767) 年から織田氏が2万石で入封,文政 11 (1828) 年織田信義のとき,居城を天童に移し天童藩成立。以後廃藩置県にいたった。外様,江戸城柳間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「天童藩」の解説

天童藩

出羽国、天童(現:山形県天童市)周辺を領有した外様藩。藩主は織田氏。旧・高畠藩。

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