天満町(読み)てんまちよう

日本歴史地名大系 「天満町」の解説

天満町
てんまちよう

下京区西木屋町通松原上ル二丁目

ほぼ南北に通る西木屋町にしきやまち通を挟む両側町で、東側には高瀬たかせ川が流れ、西側は河原町かわらまち通にも面する。

平安京では京域外で、崇親すうしん院領であった。平安末に崇親院が荒廃して後は、妙法院門跡領となった。

寛文九年(一六六九)、一〇年にかけての鴨川筋新堤建設以後、町地として開発された。寛文一二年洛中洛外大図に「天満丁」とみえ、以後変更はないようで、宝永二年(一七〇五)洛中洛外絵図では、高瀬川沿いを「天満丁裏」と記している。慶長年間(一五九六―一六一五)角倉了以高瀬川開削で、その経済的重要性が増すにつれ、川沿いの町も発展していたと思われる。

天満町
てんまちよう

[現在地名]西区天満町

広島城下広瀬ひろせ(現中区)に含まれ、新開組に属した。東は小屋こや(天満川)を挟んでさかい町四丁目(現中区)。「知新集」に「此所、当地町割の時の普請小屋なりしを、其儘家宅となしける故、古名小屋新町とよひしを、火災しはしはありけるより、天明八申年願て天満町と改む」と記し、町間数二町三八間五尺九寸、竈数二一九(本竈一〇三・借竈一一六)、人数七七八(男四一二・女三六六)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報