大田原城下(読み)おおたわらじようか

日本歴史地名大系 「大田原城下」の解説

大田原城下
おおたわらじようか

[現在地名]大田原市城山しろやま一―二丁目・元町もとまち一―二丁目・山の手やまのて一―二丁目・新富町しんとみちよう一―三丁目・若松町わかまつちよう中央ちゆうおう一―二丁目・末広すえひろ一―二丁目・住吉すみよし一―二丁目・若草わかくさ一―二丁目

那須扇状地を南東流する蛇尾さび川右岸にあり、龍体りゆうたい山の丘陵南西の平地に広がる。城下の成立は天文一二年(一五四三)または同一四年大俵(大田原)氏が北方町島の水口まちじまのみなくち館から移り、当地に城郭を構えたことに始まるとされる。弘治元年(一五五五)資清の時、築城以前から当地に居住していた印南・磯・岡本・川上・関らの諸氏に屋敷地を与え、城の郭外八町以内に屋敷替えを命じた(「大田原市史資料」大田原市教育委員会蔵)。以後、慶長五年(一六〇〇)の上杉攻撃のための防備や、翌年頃の奥州街道の付替えを経て、寛永年間(一六二四―四四)頃には城下の形態が整えられたとみられる。城下は宿を形成するみなみ町・きた町と郭内に大別される。

〔町人地〕

正徳三年(一七一三)の大田原町絵図(印南敬二郎蔵)によれば、南西から北東へ奥州街道が延び、北側を北町、南側を南町と大別。両町は南西江戸側より新田しんでん町・しも町・なか町・かみ町が並び、上町を南に折れて郭内侍屋敷に続く大手門がある。また北に折れてあら町が続き、塩原しおばら温泉と狩野かの(現黒磯市)方面へ通ずる。上町先を北へ鉤の手に曲がるとてら町となり、藩主菩提寺光真こうしん寺の門前町へと通ずる。寺町中央から東へ折れ、さらに鉤の手に曲がると大久保おおくぼ町で、同町中央より南に折れると城内侍屋敷への大久保門(城の北側裏口)へと通ずる。さらに奥州街道は大久保町から大田原城内北城の北側堀切ほつきりを蛇行して通り蛇尾川を渡る。新田町入口から大久保出口木戸まで一五町八間。享和三年(一八〇三)の城下絵図(大田原市教育委員会蔵)には、下町・仲町北側と仲町・上町の南側郭内侍屋敷境東南に空堀がある。矢来木戸は下町・荒町・寺町・大久保町の四ヵ所、辻番所は下町・仲町・上町・寺町・荒町・大久保町の六ヵ所にある。荒町は寛永頃の城郭拡張の際、商人町として形成された新町と推定される。前掲正徳三年の町絵図によれば、新田町は三〇軒(馬役五・歩行役二〇・明屋敷四・無役一)、下町は五一軒(馬役八・歩行役三九・無役四)、仲町は三九軒(馬役三四・無役五)、上町は三六軒(馬役三三・無役三)、寺町は六〇軒(馬役九・歩行役三二・無役一九)、荒町は四七軒(馬役六・歩行役二二・無役一九)、大久保町は四一軒(無役四・川越橋掛人足三八)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大田原城下の言及

【大田原[市]】より

…主産業は,地方中心としての商業と,米作と酪農を中心とする農業であるが,西端の野崎地区へは付加価値の高い医療機器の工場進出が見られ,また電気機器工業も大きく発展している。【桜井 明久】
[大田原城下]
 下野国那須郡の城下町で,奥州道中の宿場。1545年(天文14)大田原資清が蛇尾(さび)川右岸の丘陵上に築城,那須氏に従い,その重臣〈那須七騎〉の一つとして勢力を振るった。…

※「大田原城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」