大森町(読み)おおもりまち

日本歴史地名大系 「大森町」の解説

大森町
おおもりまち

[現在地名]大田市大森町

佐摩さま村の内。銀山ぎんざん川上流部の小林こばやし境から蔵泉寺ぞうせんじ口までの一三町一一間にわたる谷間の町場。初代銀山奉行大久保石見守長安によって慶長一〇年(一六〇五)頃から町づくりが進められた(慶長七年一〇月二六日「大久保長安書状」吉岡家文書など)。第二代銀山奉行竹村丹後守道清が寛永(一六二四―四四)初期、石見銀山領支配の拠点として城上きがみ神社付近に役宅を置いたことから銀山奉行所、のちの大森代官所の所在地となり、石見東部の政治・経済の中心地として発展するに至った。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によると、町屋敷三町七反余で、うち侍屋敷一町七反余、町人屋敷一町五反余、侍持分町屋敷三反余、九畝余の侍屋敷は「新家不相立当分明キ家」と記されている。侍屋敷六〇ヵ所・町人屋敷八〇ヵ所、家数一八三・人数六三七。文政二年(一八一九)の家数人別牛馬調(野沢家文書)では家数二六六・人数一千一四三、牛六・馬二。

寛政一二年(一八〇〇)三月二四日栄泉えいせん寺付近から出火し、折からの西風にあおられ、城上神社・春日神社・栄泉寺・観音寺大音だいおん寺など由緒ある神社・寺院をはじめ、侍屋敷六一軒(仲間長屋を含む)・社家四軒・町家二一九軒のほか土蔵二六ヵ所を焼尽す大火に見舞われた。

大森町
おおもりまち

[現在地名]鳥取市相生町あいおいちよう二丁目

丹後片原たんごかたはら町の西にあり、北西の薬師やくし町に続く。町人地四八町の一町で下構のうち。町としての確かな起立年代は不明。「因府年表」によると、享保一二年(一七二七)九月一七日大森町より出火し薬師町を含む六〇軒余を焼失、これを機会に町を現在地に移転したとあり、城下町人地が四八町と制定されたのはこの時代であったと記す。また同書享保二年八月一六日の記事には、大森町は今の新品治しんほんじ町の旧名であることが旧記にみえるとあり、同一二年の火災前の大森町が南西の新品治町の地にあったことを示す。

大森町
おおもりちよう

[現在地名]函館市大森町

明治五年(一八七二)二月に一町として公認された町(同年「御達留」市立函館図書館蔵、「事業報告」第一編)亀田かめだ半島と函館山を結ぶ陸繋部に位置し、南東は津軽海峡に面している。成立時には東川ひがしかわ町の東に位置していた。明治九年の現住戸口は五五戸・三三〇人(函館支庁管内村町別戸口表)。同三〇年の戸数一五五・人口七四一(伊藤鋳之助文書)。同四二年の町域面積は一三万一千四三九坪(函館区統計)

大森町
おおもりまち

面積:一〇二・一九平方キロ

横手盆地西部。北は仙北せんぼく南外なんがい村、南は雄物川町、東は大曲おおまがり市・大雄たいゆう村、西は由利郡大内町・東由利町に接する。

町の西部は出羽山地に続く八沢木やさわぎ地区で、保呂羽ほろは(四三八メートル)があり、山上に式内社波宇志別はうしわけ神社(奥宮)が鎮座する。東部は北流する雄物川西岸の川西かわにし地区で、藩政期五ヵ村ごヵそん堰の開通により新田村が開かれた。中央部は大森地区で、西部の出羽山地に発する上溝うわみぞ川・大納だいな川が雄物川に合する谷口を占める。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報