大屋郷(読み)おおやごう

日本歴史地名大系 「大屋郷」の解説

大屋郷
おおやごう

和名抄」高山寺本・東急本とも「大屋」と記すが訓を欠く。郷名は大屋都姫おおやつひめ神社に由来する。「続日本紀」大宝二年(七〇二)二月二二日条に「是日、分遷伊太曾・大屋都比売・津麻都比売三神社、」とみえ、本居内遠の「伊太曾三神考」によれば、もと三社は現和歌山市秋月あきづきにあったが、その社地を日前国懸神に譲り大屋都姫神社は北野きたのの地へ移り、次いで今の地に移ったとする。今の社地は現和歌山市宇田森うだもりにあり、郷域は紀ノ川右岸の宇田森・弘西ひろにし西田井にしたい辺りと推定される。

大屋郷
おおやごう

江戸期の大谷おおや一帯に比定される戦国期の郷名。明応四年(一四九五)一二月二五日の今川氏親判物写(判物証文写)によると、駿府浅間社(静岡浅間神社)社家東流大夫は「大屋郷」内の地を安堵されている。天文一八年(一五四九)八月一一日の駿府浅間社社役目録(村岡大夫文書)および永禄元年(一五五八)八月一三日の今川氏真朱印状(静岡浅間神社文書)では、当郷は駿府浅間社の六月二〇日流鏑馬郷役を二貫一〇〇文負担している。永正六年(一五〇九)九月六日、今川氏親は買得下地分として当郷の二町を宝樹ほうじゆ院に安堵した(駿河志料)。同一二年に没した行之正順は、「大谷郷」に曹洞宗大祥寺(現大正寺)を開いた(日本洞上聯灯録)

大屋郷
おおやごう

「和名抄」所載の郷。諸本ともに訓を欠くが、越前国今立いまだて郡の大屋郷に「於保也」の訓があり(同書高山寺本)、当大屋郷も同訓であろう。郷域は現大屋町の加保かぼ大屋市場おおやいちば起点とし、それより上流の大屋川流域と支流明延あけのべ川流域とするのが「但馬考」以来の通説であるが、加保・大屋市場から明延川流域を賀母かも郷とすることも可能であろう(→賀母郷

大屋郷
おおやごう

「和名抄」に「大屋」と記され、訓を欠く。安元三年(一一七七)の某家政所下文案(護国院文書)に「大谷郷 可早任御下文旨、停止家景妨、為鹿嶋御物忌沙汰事」とみえ、鹿島神宮領であった。「新編常陸国誌」には「按ズルニ、大田村ノ西ニ小流アリ、南ヨリ北ニ流レテ蒜間江ニ入ル、コレヲ大谷川ト云フ、大屋訓オナジ、仍テコノ地辺古ノ大屋郷ナルヲ知レリ」とあり、郷域は現鹿島郡旭村上太田かみおおた・下太田田崎たさき、東茨城郡大洗町神山かみやま町・成田なりた町の一帯とされる。

大屋郷
おおやごう

「和名抄」高山寺本は「於保也」と訓ずる。天平勝宝二年(七五〇)五月七日と推定される優婆塞貢進文(正倉院文書)に「丹生郡大屋郷」とみえ、郡名は異なるが、今立郡の分立以前であるから当郷のことであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報