大多和村(読み)おおたわむら

日本歴史地名大系 「大多和村」の解説

大多和村
おおたわむら

[現在地名]西海町太田和郷おおたわごう

黒口くろくち村の南にあり、東部の虚空蔵こくぞう山に発する太田和川が呼子よぶこノ瀬戸に注ぐ。海沿いの往還筋に一里山が置かれた(慶安二年肥前国道法帳)。瀬戸内の塩飽しあく(現香川県丸亀市)より平家残党が移住したと伝え、塩飽様を祭祀とするという。当地を領知とした太田和氏の館や、萩原はぎはら城・たけノ城・梅崎うめさき城があったとされる(「元禄記」大村郷村記)しろ山の土塁・段築を伴う遺構は城ノ越という地名も合せて中世の城館跡とされ、下山さがりやま城跡とよばれる。跡地から出土した天文二三年(一五五四)銘の五輪塔に「禅定門裡儀」と刻まれる。文禄の役で大村喜前に従って軍功のあった岩永久右衛門前忠が太田和村内に三〇〇石の知行を与えられたという(新撰士系録)。慶長の役の頃は太多和次郎が地頭であったが、朝鮮半島に参陣しなかったため上知となり、その廃絶に伴い表記も太田和に変えたとされる(大村郷村記)

大多和村
おおだわむら

[現在地名]神岡町大多和

跡津あとつ川源流部、東の大多和峠を越え越中国新川にいがわ有峰ありみね(現富山県上新川郡大山町)に出る。国境の峠までの間を峠の谷といい、谷越えもある。もう一つの峠は坂道で北の越中国長棟ながと(現大山町)へ出る。西は佐古さこ村。慶長一〇年(一六〇五)・同一八年の飛騨国郷帳では跡津川あとつがわ村と同じ。元禄検地反歩帳では高六石余、田一町三反余・畑一町六反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報