大垣村(読み)おおがきむら

日本歴史地名大系 「大垣村」の解説

大垣村
おおがきむら

[現在地名]松江市大垣町

本宮ほんぐう(二七九・四メートル)の南麓に位置し、東は岡本おかもと村、南は宍道湖に臨む。湖岸杵築道が通る。中世大野おおの庄に含まれていたとみられる。正保国絵図に村名がみえ、ほかに「大垣ノ内」として二つの村名が記される。元禄十年出雲国郷帳によると高九〇二石余、寛文四年(一六六四)には本田高八八二石余・新田高四石余。「雲陽大数録」では高八一〇石。寛延四年(一七五一)の秋鹿郡西組村々万差出帳(県立図書館蔵)によると、高八一四石余、家数は本百姓八六・名子間脇二六、人数六五六。

大垣村
おおがきむら

[現在地名]橿原市大垣町

新口にのくち村・小槻おおづく村中間に所在古代・中世には広範囲に及ぶ大垣おおがき庄があった。近世の初め幕府領(代官楢村監物)慶長郷帳に「大がき村」とあり、村高三六三・九八八石。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となる。同藩の二割半無地高増政策で村高四五四・九八五石。

大垣村
おおかいむら

[現在地名]山東町大垣

矢名瀬やなせ町の北北西粟鹿あわが川の流域に位置する。北部に岡村清左衛門秀清の墓がある。元亀二年(一五七一)一一月の丹波国山垣やまがい(現青垣町)での合戦武功があり、山名祐豊夜久野やくの城主磯部豊直から感状をもらったという。

大垣村
おおがきむら

[現在地名]宮津市字大垣

宮津湾の内海阿蘇あそ海に臨み、成相なりあい山南麓にある。

近世初頭には府中ふちゆう郷に含まれ、慶長七年(一六〇二)府中郷検地帳(筑波大学蔵)に、ところ名として「大かき」が記される。その後分離し、個別に高付され延宝三年郷村帳に「府中大垣村」高四四・八九五石とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報