大中村(読み)うふちゆんむら

日本歴史地名大系 「大中村」の解説

大中村
うふちゆんむら

[現在地名]那覇市首里大中町しゆりおおなかちよう一―二丁目

当蔵とーぬくら村の西に位置し、同村との境界をアダニガービラが南北に走る。ウフチュンとよぶ。南風ふえー之平等のうち。首里古地図には中央部の東西通りを軸にし北谷ちやたん御殿や羽地按司邸・津嘉山按司邸など五八の屋敷地のほか、仲里大なかざとううふ御嶽仲里小なかざとうく御嶽・アダニがー聞得大君ちふいじん御殿がみえる。田畠はない。両御嶽は「琉球国由来記」にもみえ、首里三平等の大あむしられのうち、首里大あむしられの崇所であった。聞得大君御殿は康熙四五年(一七〇六)に当村に移されたが(女官御双紙)、雍正八年(一七三〇)には汀志良次ていしらじ村に移転した(南島風土記)龍潭りゆうたんの北にある北谷御殿は大村家の祖北谷王子朝愛(尚質王第四子)邸宅で、のちに大村うふむら御殿と称した。妖術使いの怪僧黒金座主は北谷王子に耳を切落されて退治され、北谷御殿南東角の辻に埋められたが、そこにはのちに耳のない坊主の亡霊が立つようになったという。

大中村
おおなかむら

[現在地名]里美村大中

里川の上流域に位置し、南は折橋おりはし村。古くから小里おざと郷の中心地として栄えたと思われ、遺跡も多い。「日本後紀」弘仁三年(八一二)一〇月二八日条および「延喜式」(兵部省)の常陸国駅馬にみえる「雄薩」駅の位置は、近年の考古学では大中説が有力となっている。また里川東側の小丸山こまるやま遺跡からは猿投さなげ窯の蔵骨器が発見され、交流を物語る。京都醍醐寺の尭雅僧正関東下向記録(三宝院文書)の元亀三年(一五七二)正月七日の項に「於小里隆真院印可」とあり、また「三月ニ花蔵院伝受等之事之小里ヘ来臨ト見タリ」とあって、大中地内にあった隆真りゆうしん院の地を小里と記す。

大中村
おおなかむら

[現在地名]大和高田市大中東おおなかひがし町の全域、および西にし町・大中南町・北本きたほん町・南本町の一部と大字大中

有井ありい村南部に接続する。「続日本紀」宝亀五年(七七四)一〇月三日条によると、東大寺大仏を鋳造した国中連公麻呂(もと百済国人)氏名について「以居大和国葛下郡国中村、因地命氏焉」と記している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報