多度津村(読み)たどつむら

日本歴史地名大系 「多度津村」の解説

多度津村
たどつむら

[現在地名]多度津町栄町さかえまち一―三丁目・なかちよう元町もとまち本通ほんどおり一―三丁目・桃山ももやま京町きようまち西浜にしはま東浜ひがしはま大通おおどおり・寿町ことぶきちよう桜川さくらがわ一―二丁目・東港町ひがしみなとまち

北を瀬戸内海に面する桜川河口に位置する。古代からの港町として発展し、近世末には多度津藩京極氏の陣屋が置かれた。また近世後期以後は金毘羅参詣の上陸地として繁栄し、廻船・流通業などの一大商業地を形成した。寛永国絵図では三井みい郷に属し、寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高七四五石余。明和八年(一七七一)の「多度津藩記録」によると高八一八石余のうち池川永捨りが一六四石余ある。田畝四三町余・畑畝七町四反余・居屋敷四町九反余。文化五年(一八〇八)庄屋亀右衛門の書上(多度津町史)によれば東西九町二七間半・南北七町三間半、海岸延長約一六町四九間、家数七七〇・寺五・庵三・社一二、町方ははま町・しん町・中之町ひがし町・米屋こめや町・みなみ町・角屋かどや町・門前もんぜん町の八町がある。文政一〇年(一八二七)多度津藩の陣屋が構えられるが、それまでに新たに町ができており、町場周辺の田地への町域拡大が知られる。「西讃府志」では、多度津村内の小地名としてあげる八〇のなかに東町洲家すか町・中之町・六間ろつけん町・堀之ほりの町・門前町・田町・新町がみえる。同書によると租税は米四二六石余・大麦五石余・小麦二石余・大豆八石余、家数八五九・人数三千一〇一、船八(八反帆一、六反帆二、四反帆二、一挺舟三)、牛四・馬一二、魚問屋六、番所五、門三。

文化五年九月一九日、伊能忠敬一行は多度津で一泊し、測量ののち丸亀に向かっている(伊能忠敬測量日記)。天保五年(一八三四)廻船や金毘羅参詣客の増加で新湛甫建設が着手され、同九年に竣工したが、このとき当村町方の問屋衆も頼母子講銀二二貫文余の掛銀を負担した(「御講銀算用覚」木谷文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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