墨田(区)(読み)すみだ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「墨田(区)」の意味・わかりやすい解説

墨田(区)
すみだ

東京都区部の北東部にある区。1947年(昭和22)北部の向島(むこうじま)、南部の本所(ほんじょ)の2区が合併して墨田区となる。隅田川(すみだがわ)の左岸にあり、隅田川との関係が深いことから隅田と同義の名を区名とした。区境の西は隅田川、北は荒川(荒川放水路)、東は中川で、隅田川のつくった三角州地帯にあり、南の江東(こうとう)区とともに「ゼロメートル地帯」とよばれる低湿地にある。区域内には、江戸時代、水運の役割を果たした北十間(きたじっけん)川、大横(おおよこ)川、横十間川、竪(たて)川などの水路が縦横に通り、水郷(すいごう)の景観を呈している。JR総武線が南部を横断、東武鉄道伊勢崎(いせさき)線・亀戸(かめいど)線、京成電鉄押上線(けいせいでんてつおしあげせん)、都営地下鉄大江戸線が縦断する。押上で都営地下鉄浅草線が京成電鉄に、東京地下鉄半蔵門線が東武鉄道にそれぞれ乗り入れ、南端に都営地下鉄新宿線が通る。北部を水戸街道(国道6号)が縦断、南端部を千葉街道(京葉道路、国道14号)が横断する。西境の隅田川沿いに首都高速道路6号向島線、南端部に7号小松川線が通じる。

 明暦(めいれき)の大火(1657)以後、江戸幕府が防火のため江戸市街地の武家屋敷や寺社、町家をこの地に移転させてから発展するようになった。赤穂(あこう)義士討入りの吉良(きら)邸は両国(りょうごく)に、水戸藩の下屋敷は現在の隅田公園にあるなど、大名や豪商の別邸の地で、向島の隅田川寄りは文人墨客(ぼっかく)のよく訪れた静かな郊外の地であった。隅田川七福神(しちふくじん)巡りは文人が始めたもので、各寺社には句碑が多く、国の名勝・史跡に指定されている向島百花園は現在も「虫ききの会」「月見の会」が催されている。また隅田川の堤防は、隅田堤、葛西(かさい)堤、墨堤(ぼくてい)とよばれ、江戸町民の桜見、月見などの行楽地であった。長寺命(ちょうめいじ)門前の桜餅(さくらもち)、近くの言問団子(ことといだんご)は、その当時からの名物である。明治になり、水陸交通の便と低廉で広い土地が得やすいことで工業地として発達することとなった。鐘紡(かねぼう)(のちカネボウ、隅田川の鐘ヶ淵(かねがふち)に立地し、その名を会社名とした。現、クラシエホールディングス)、花王(かおう)、朝日麦酒(ビール)(現、アサヒビール)、精工舎(のちセイコー。1997年工場閉鎖)などの大工場とともに中小零細規模の繊維、化学などの雑貨工業や機械・金属、出版・印刷などの工業が発展し、部品、下請け関連などの工業が地域集団を形成、江東工業地区の一部となった。しかし工業用水のための地下水過剰くみ上げによって軟弱な地盤が収縮して地盤沈下を引き起こし、高潮時や豪雨時に浸水するなどの公害が生じた。その後、防潮堤の完備、鐘紡など一部大工場移転跡の高層アパートの建設、地下水くみ上げの制限・禁止などの対策により、環境破壊が避けられるようになった。

 明暦の大火による焼死者を弔う回向院(えこういん)の奉納相撲(ずもう)を機として大相撲が始まり、両国には相撲部屋が多い。近くの旧安田庭園は、潮入り回遊庭園として知られる。また1985年、台東(たいとう)区蔵前(くらまえ)から両国駅の北側に、国技館が移ってきた。その隣地に東京都江戸東京博物館が1993年(平成5)開館。2012年(平成24)には区域のほぼ中央にあたる押上地区に自立式電波塔としては高さ世界一(634メートル)の東京スカイツリーが開業。錦糸町(きんしちょう)駅周辺は江東地域の中心としての繁華街を形成している。面積13.77平方キロメートル、人口27万2085(2020)。

[沢田 清]

『『墨田区史』(1959・墨田区)』『『墨田区史』上下(1979、1981・墨田区)』


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