回向院(読み)エコウイン

デジタル大辞泉 「回向院」の意味・読み・例文・類語

えこう‐いん〔ヱカウヰン〕【回向院】

東京都墨田区両国にある浄土宗の寺。無縁寺ともいう。山号は国豊こくぶ山。開創は明暦3年(1657)、開山は遵誉貴屋じゅんよきおく。幕府が明暦の大火の犠牲者を供養するため建立。その後も牢死者・刑死者・安政の大地震の死者などを弔う。18世紀末、境内勧進相撲を興行したのが、両国の大相撲起源という。鼠小僧次郎吉の墓がある。

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精選版 日本国語大辞典 「回向院」の意味・読み・例文・類語

えこう‐いん ヱカウヰン【回向院】

東京都墨田区両国にある浄土宗の寺。山号は国豊(こくぶ)山。明暦の大火(一六五七)での焼死者十万八千体を葬り、諸宗山無縁寺と称した。天明元年(一七八一)以降境内で勧進相撲を興行。両国回向院。

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日本歴史地名大系 「回向院」の解説

回向院
えこういん

[現在地名]墨田区両国二丁目

両国橋東方にある。国豊山無縁むえん寺と号し、浄土宗。阿弥陀如来を本尊とする。明暦三年(一六五七)の大火の後、幕府は本所牛島うしじま新田の五〇間四方の地に約一〇万八千人ともいわれる焼死者の遺体を埋葬し、塚が築かれた。さらにその菩提を弔うため芝増上寺より二三世遵誉貴屋に法事を修行させた(「徳川実紀」同年二月二九日条)。その際諸宗の僧を集め、一七日間塚の前で経を読誦し大法会を行ったという(江戸名所図会)。また巷間に伝えられるところでは、明暦大火後の一月二四日増上寺に代参した保科正之が道端に放置されたままの犠牲者の姿に心を痛め、幕府老臣とはかって牛島新田の地を選び、埋葬と供養を行わせたという(「徳川実紀」前掲条)

回向院
えこういん

[現在地名]上京区東竪町

御前おんまえ通に西面する。光明山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によると、法然の説法教化の場として黒谷くろだに(現京都市左京区)に創建された紫雲別坊を前身とし、慶長一七年(一六一二)勧誉敬音が現在地に移し(蓮門精舎旧詞)、回向院と称するようになった。延宝三年(一六七五)・安永二年(一七七三)自火により全焼、天明二年(一七八二)再建(坊目誌)。「浄家寺鑑」は善導大師像・法然上人絵像・如意輪観音・伝運慶作毘沙門・伝定朝作地蔵・摩耶夫人と悉達太子像などの寺宝を記し、如意輪観音は寛永五年(一六二八)八月丹後国の海中より光を放って出現したものという。

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改訂新版 世界大百科事典 「回向院」の意味・わかりやすい解説

回向院 (えこういん)

東京都墨田区にある浄土宗の寺。諸宗山(国豊山)無縁寺と号す。1657年(明暦3)1月18,19両日にわたる江戸の大火で焼死・溺死した10万余人の霊を回向するため,幕府より本所牛島新田に50間四方の土地を下付され,遺骸を集めて埋葬したのに始まる。導師には増上寺第23世遵誉上人が任ぜられ,一山大衆を率いて追善法要を行った。そして上人自ら国豊山回向院と号し,諸寺院中から小石川智香寺信誉上人を招いて事実上の開山とした。これより諸堂宇も整備され,惨死者の冥福を祈る不断念仏の道場として江戸市民の信仰を集めた。境内には明暦の大火をはじめ,1783年(天明3)の浅間山大噴火,1855年(安政2)の安政大地震,1923年の関東大震災などの犠牲者や,海上溺死者,小伝馬町牢死者にいたるまで幾多の無縁の霊がそれぞれ供養塔にまつられている。ほかに松平定信が1793年(寛政5)に建てた水子塚,江戸相撲の発祥地を記念して建てられた力塚,猫塚等があり,1962年には家畜諸動物百万頭回向堂の竣工をみた。国学者加藤千蔭,戯作者山東京伝,浄瑠璃語り竹本義太夫など有名人の墓も多く,なかでも義賊ともてはやされた盗賊鼠小僧次郎吉の墓は,勝負師などの縁起をかつぐ人たちに人気があり,墓石を欠いて持っていると願い事がかなうという俗信の対象となっている。また江戸時代には諸国の霊仏・霊宝を迎えて行う出開帳の開催場所として知られ,見世物の興行もあずかり多数の参詣人で賑わった。天明期からは毎年境内で勧進相撲が行われ,明治から昭和にかけての両国の国技館は当寺の境内にあった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「回向院」の意味・わかりやすい解説

回向院
えこういん

東京都墨田区両国にある浄土宗の寺院。諸宗山無縁寺(むえんじ)と号する。1657年(明暦3)の明暦(めいれき)の大火(振袖(ふりそで)火事ともいう)による焼死者を将軍徳川家綱の命によりここに葬り、増上寺(ぞうじょうじ)第23世遵誉(じゅんよ)に回向させて、塚上に一寺を建立したのを始まりとする。それ以来、江戸府内の水死者、焼死者、あるいは牢(ろう)病死者などすべての無縁仏もここに葬られることとなった。本尊は明暦の大火の死者慰霊のためにつくられた阿弥陀如来(あみだにょらい)。江戸時代には府内総檀家(だんか)として奉加御免の特典が与えられ、境内では毎年勧進(かんじん)相撲を催したため大相撲の発祥の地ともなった。また諸国の霊験ある本尊を迎えて行った出開帳(でがいちょう)は当寺の名物であり、門前では見せ物などが出てにぎわった。境内には、1855年(安政2)の大震災の石塔、水子(みずこ)塚、力塚(ちからづか)、猫塚があり、また墓域には加藤千蔭(かとうちかげ)や山東京伝(さんとうきょうでん)・京山(きょうざん)兄弟、鼠小僧(ねずみこぞう)次郎吉(じろきち)などの墓がある。

[森 章司]

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百科事典マイペディア 「回向院」の意味・わかりやすい解説

回向院【えこういん】

東京都墨田区にある浄土宗の寺。国豊山無縁寺と号す。1657年の明暦の大火で焼死した者(10万余人とも)を埋葬,塚を築いて供養したのが始まりという。1781年以後勧進相撲の興行地となり,1919年旧国技館が建てられた。境内に東都六地蔵,山東京伝,鳥居清長,鼠小僧などの墓がある。
→関連項目荒川[区]本所両国

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「回向院」の解説

回向院
えこういん

東京都墨田区両国にある浄土宗鎮西派の寺。国豊山無縁寺と号す。1657年(明暦3)江戸大火の死者を埋葬して築いた漏沢(ろうたく)園(無縁塚)に始まる。増上寺23世遵誉貴屋(じゅんよきおく)が幕府の援助により1宇を建立,諸宗山無縁寺と号した。万治年間(1658~61)刑死者を弔うため三仏堂がたてられ,1667年(寛文7)には小塚原刑場に別院の常行庵が建立された。1781年(天明元)境内で始められた勧進相撲は,国技館大相撲の前身となった。

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世界大百科事典(旧版)内の回向院の言及

【開帳】より

…江戸の場合,居開帳では浅草寺観音を筆頭に江の島弁天,護国寺観音,亀戸天神,洲崎弁天など,出開帳では成田不動,嵯峨清凉寺の釈迦,信州善光寺如来,甲州身延山祖師が四天王と称されて人気があった。出開帳場所としては,本所回向院(えこういん),深川永代寺,湯島天神,深川浄心寺などがおもな所で,とくに回向院は近くに両国広小路の盛場をひかえ,絶好の出開帳場所として繁盛した。開帳の最盛期は田沼時代を中心とする約50年間で,寛政以後しだいに衰え,天保改革以後はとくに出開帳は激減した。…

※「回向院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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