四郎丸村(読み)しろうまるむら

日本歴史地名大系 「四郎丸村」の解説

四郎丸村
しろうまるむら

[現在地名]仙台市四郎丸

袋原ふくろばら村の南東、名取川右岸の自然堤防上および後背湿地上の平地に立地する。対岸に当村分古川ふかわがある。東は閖上ゆりあげ(現名取市)、南は下余田しもよでん(現同上)。中世、もと三浦氏の所領と推定され、宝治合戦の結果北条得宗領となり、地頭代職が同合戦の功により被官曾我氏(光高曾祖父光広か)に与えられた(元弘四年二月日「曾我光高申状案」遠野南部文書)。嘉元二年(一三〇四)五月二四日の曾我泰光譲状(同文書)に「なとりのこほり四郎丸うち、泰光かちきやうふん一ふんもよけす」とあり、嫡子の太郎光頼に当地などを譲渡している。元亨元年(一三二一)四月日の四郎丸内若四郎名結解状(斎藤文書)によれば、北条氏に対する年貢は延慶二年(一三〇九)より文保年間(一三一七―一九)にかけて六度にわたって納められ、元亨元年に、元応二年(一三二〇)の応納高との対比で決済が行われた。結果、応納高年四貫余に対し二一貫余が納入され、過上銭一七貫余となっているが、これは年貢の先取分と考えられる。納入の任にあたったのは地頭代曾我余一左衛門(泰光か)である。なお端裏書に「池田元亨元四卅近衛殿同五十九」とあることから、当地を近衛家領庄園とする説があるが、同氏への送金に対する返抄(請取状)と考えられている。

四郎丸村
しろうまるむら

[現在地名]長岡市四郎丸町・四郎丸二―四丁目・学校がつこう町一―三丁目・美沢みさわ一―四丁目・琴平ことひら一丁目・千歳せんざい一丁目・土合どあい五丁目・金房かねふさ二―三丁目・前田まえだ三丁目

長岡城の南東方、福島ふくじま江の東側、長岡町のゆみ町の対岸にあたる。南に道をたどれば土合村に至る。天正村名考(温古之栞)に「赤木八十三軒」と伝えるのが当村で、古くは赤木あかぎと称されていたらしい。これは当地の赤城あかぎ神社に由来するものであろう。

四郎丸村
しろうまるむら

[現在地名]城島町四郎丸

青木島あおきしま村の東に位置し、東・南は上青木かみあおき村、北は江島えしま村。永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事記文(御船文書/鎌倉遺文二五)によると三潴庄西さい郷に属して村名がみえ、同庄の鎮守大善だいぜん玉垂たまたれ(現久留米市)の二階楼門の維持管理を負担した。ほかに十月朔幣料米五斗、冬烝使頭六斗の神事用途、五月一五日の五月会に村田楽・尻巻・右方相撲人を出し、九月一九日の九月会では諸富もろどみ(現大川市)とともに十番の頭役を勤め、料田として四反中があった。

四郎丸村
しろうまるむら

[現在地名]宮田町四郎丸

遠賀おんが川水系犬鳴いぬなき川支流の倉久くらひさ川中流域に位置する。南は長井鶴ながいづる村、南東は宮田村。古くは北西の倉久村一村であったといい(続風土記附録)、同村との境を通る道は、豊臣秀吉朝鮮出兵のため名護屋へ下向する際に通ったことから太閤たいこう道と称された(続風土記)。江戸時代は福岡藩領。慶長七年(一六〇二)の検地高六九七石余、うち大豆七五石余(慶長石高帳)。田圃志では高六九五石余・反別六七町一反余、家数五五・人数三三九、枝郷として万願寺村飯倉村がみえる。

四郎丸村
しろうまるむら

[現在地名]豊前市四郎丸

八屋はちや村の西に位置し、北は周防灘に面する。西はさかい(現読川)という小川を挟んで築城ついき松江しようえ村に接し、中津街道に「従是東上毛郡・従是西築城郡」と刻された境石(石柱標示)があった(現在神崎氏宅内に保存)。江戸時代は小倉藩領。延享三年(一七四六)の御案内覚帳(稲葉文書)では免三ツ四分、高六二四石余・新地高六五石余、小物成は竹藪代・茶年貢米・葭代で米四石余、薪札代銀四三匁余・干見運上銀五匁余、竈数五四、家数八八・人数四五〇、牛馬二一。寛政七年(一七九五)の村々明細帳(友枝文書)によれば反別田四四町八反余・畠一〇町三反余、家数一二五、うち本村二五・今町いままち九・田中たなか六・中井なかい一〇・高野たかの一二・湯越ゆごえ八・笹原ささはら八・西にしさこ三一・すぎ一六、人数六八八、牛一八・馬三〇、酒造場一、紺屋札一・棒札一、池三。

四郎丸村
しろうまるむら

[現在地名]甘木市福光ふくみつ

鵜木うのき村・片延かたのぶ村の北、かつら川下流の平野部に位置する。下座げざ郡に属し、北は桑原くわばら村など。江戸時代を通じて福岡藩領。慶長七年(一六〇二)の検地高二九二石余、うち大豆六六石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高二九三石余・反別二五町九反余、家数一六・社一、人数一〇三(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も二九三石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数二五・人数一〇三、馬一三(別本「続風土記附録」)

四郎丸村
しろうまるむら

[現在地名]武生市四郎丸町

府中町の南にあって北陸街道に沿う。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に「四良丸村」とみえ、高一四二四・六四石、先高一千一七二石余・出分二五二石余が記される。

四郎丸村
しろうまるむら

[現在地名]丸岡町四郎丸

磯部島いそべしま村の北にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では磯部北保に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方一九六石・畠方五八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報