漆山村(読み)うるしやまむら

日本歴史地名大系 「漆山村」の解説

漆山村
うるしやまむら

[現在地名]南陽市漆山

白鷹しらたか山塊大鷹おおたか山から南に流下する織機おりはた川の渓口部に発達した集落。川の浸食作用により小規模なV字谷を各所に形成する。山麓を東西に通じる赤湯あかゆ村と時庭ときにわ(現長井市)を結ぶ道に沿い、織機川左岸の池黒いけぐろ村、右岸の当村と羽付はねつき村は街村状をなす。当村南部の大仏おぼとけ地内の手塚久右衛門氏屋敷内に、文和三年(一三五四)二月銘の高さ四・二四メートルの凝灰岩の阿弥陀板碑がある。額の上に平行線二条とキリークの種子が刻まれる。県内では第二位の大きさで、県指定文化財。

天正一三年(一五八五)北条段銭帳によると、小野八郎左衛門が鎌田与三右衛門分として漆山一千五二五刈分三八二文、内馬場能登守が三千五〇〇刈分八七〇文を納めている。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一千五〇九石余、免三ツ三分、家数五六(うち役家一一、肝煎・小走四)、人数三一一、役木として漆・桑・紅花・青苧をあげる。

漆山村
うるしやまむら

[現在地名]山形市漆山・あけぼの・伊達城だてじよう

千手堂せんじゆどう村の北に位置し、立谷たちや川の中流左岸、同川扇状地の扇端部平地に立地。集落の東部は畑地帯、西部は水田地帯で、湧水によって灌漑している。中央を羽州街道が南北に抜ける。弥生中期の漆山遺跡や五世紀末の衛守塚えもりづか古墳群があり、早くから開発された地域であった。貞治三年(一三六四)九月一一日の沙弥真季打渡状(相馬文書)に「出羽国下大山庄漆山郷」とみえる。室町時代斯波兼頼の孫満直の三男満頼が漆山に居館していた(最上家譜・最上系譜)。永正一八年(一五二一)の湯殿山大権現写(土屋文書)に「漆山に荒駒・月山」とみえる。最上義光分限帳(色川文書)によれば、漆山のうち高一千石が鈴木備後に与えられている。

漆山村
うるしやまむら

[現在地名]巻町漆山

大通おおどおり川右岸の自然堤防上の村落。ほぼ東西に同川と交差する主要地方道巻―白根線沿いに弧状に形成される。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)に、「名塚分」として「間堀村」「てんちくと村」「押付村」とともに「漆山」とみえ、本符見出ともに八貫一〇〇文とある。元和四年(一六一八)長岡藩知行目録に一九〇石五斗余とあり、寛永一一年(一六三四)三根山領となった。

漆山村
うるしやまむら

[現在地名]見附市漆山町

新町あらまち村の西、北の刈谷田かりやだ対岸葛巻くずまき村の六本木ろつぽんぎ。文明年間(一四六九―八七)の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)に長尾能景分下条高波たかなみ保のなかに「本田五百四拾五束苅 松尾漆山 同宮原給分」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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