善正寺跡(読み)ぜんしようじあと

日本歴史地名大系 「善正寺跡」の解説

善正寺跡
ぜんしようじあと

[現在地名]羽曳野市はびきの二丁目

通称善正寺山にある。埴生はにう廃寺ともよばれる。塔・金堂・講堂跡などの基壇が土壇となって残り、東・西両塔をもつ薬師寺式の伽藍配置をとる寺跡として知られていたが、第二次世界大戦後の開墾や採土によって消滅した。採土に伴う調査によって西塔跡では凝灰岩の地覆石が認められ、東側に階段のあることが確認されている。東・西両塔とも、基壇は一辺が唐尺の三四尺に設計されている。金堂跡は残存していた西辺だけが調査されているが、地覆石が検出され、基壇の奥行四三・五尺、間口は唐尺六〇尺と推定されている。

善正寺跡
ぜんしようじあと

[現在地名]熊本市坪井二丁目

もとの新坪井鳥しんつぼいとり町の北東、現在の本願寺熊本別院の地にあった。「国誌」によれば、寛永一七年(一六四〇)慶了の開基。初めは西本願寺派であったが、明暦元年(一六五五)東本願寺派に転派し、さらに元禄元年(一六八八)に再び西本願寺派に復帰した。寺地は口一五間・入一五間、そのうち入一〇間・口三間は町並屋敷。寺の近隣に経蔵を建立するため、願いによって延宝八年(一六八〇)一反三畝二〇歩の年貢地を渡された。当寺の梵鐘は唐鐘で、もと西光さいこう寺にあった唐の資福寺の鐘と形が同じで、竜頭のところに空筒があり、鯨響に特徴があったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報