和佐村(読み)わさむら

日本歴史地名大系 「和佐村」の解説

和佐村
わさむら

[現在地名]下呂町和佐・焼石やけいし

瀬戸せと村南東、北西流する飛騨川支流門和佐かどわさ川をさかのぼった最初の集落。枝村焼石は飛騨川沿いにある。慶長一〇年(一六〇五)五月二三日の実蔵坊飛騨檀那目録案(経聞坊文書)に「わさ 十郎左衛門の中喜七」の名がみえ、同年の飛騨国郷帳では麻生あそう郷のうちとして村名がみえ、高二〇九石余、うち田一〇二石余・畑一〇六石余、物成六四石余。

和佐村
わさむら

[現在地名]川辺町和佐

日高川下流の左岸にあり、村の南を江川えかわ川が西流し日高川に注ぐ。西は日高川を隔てて若野わかの村、北は松瀬まつせ村、東は江川村。「続風土記」に「和佐は和田と同し義にして、此地古は江川、日高川海口海湾の地にしてその名起れるならん」とあり、上下の二村として記す。興国四年(一三四三)の一向専修念仏名帳(西教寺蔵)に「ワサ」とみえる。

慶長検地高目録によれば村高八〇四石余、小物成三斗五升。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では田畑五七町九反余で高八〇五石余、家数一三四で内訳は本役八二・半役二〇・無役二二・庄屋二・年寄五など、人数六一五、牛五六、馬一五、舟九、医者二、池一一、茶口前所一。

和佐村
わさむら

[現在地名]東和町大字和佐

屋代やしろ島の東部に位置し、北は神浦こうのうら、東は小泊こどまり、西はもり平野ひらのの各村と接し、南は伊予灘に面する。

「地下上申」の村由緒に「但当所之儀南受之所柄ニ付、夏秋作共ニ田畠早物植付仕候故、往古ハ早稲村と申たる由ニ御座候ヘ共、いつ之比よりか和佐村と申来候事」とあり、旧村名と由来を記す。

慶長一五年(一六一〇)検地帳に「和佐村」とみえ、総石高二三一石六斗余、うち田方が九町二反余で一三四石一斗余、畠方が一三町一反余で四四石一斗余とある。「注進案」によれば総田畠浜数は三〇町余で、総石高四一四石三斗余とある。このうち約半数は萩藩船手組の平岡善兵衛の給領地が占めていた。また当村は揚浜式塩田での製塩が行われ、「地下上申」に「塩浜之事」として詳細に報告されており、上ヶ浜数一七枚、出来塩八五六石八斗であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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