吉本村(読み)よしもとむら

日本歴史地名大系 「吉本村」の解説

吉本村
よしもとむら

[現在地名]竜北町高塚たかつか

東吉本ひがしよしもと村ともいう。東は大野おおの村、南は南大野みなみおおの村、西は新田しんでん村、北は西吉本にしよしもと村に接し、現在の上高塚かみたかつか区にあたる。東部は丘陵地、西は肥沃水田が展開している。小字硴原かきはらは、大野貝塚一群をなす海水産のハイガイ、カキを主とする貝塚(縄文中期―後期)で、明治期にこの貝殻をもって貝灰を焼いていたほど貝の堆積層が厚い。土穴瀬の権現つちあなぜのごんげん山に数基の古墳があり、旧土穴瀬神社の社地に石棺の蓋が数基現存している。また土穴瀬の大瀬田おおせた川とすな川が合流する微高地にはハイガイ、カキを主とする縄文中期の土穴瀬貝塚が、だんには淡水産のシジミニシを伴う縄文後期の段貝塚がある。七世紀頃の横穴古墳としてはたけした古墳群・大瀬田古墳群・越坊こしぼう古墳群・段古墳群などが知られている。

八代庄のうち道前どうぜん郷に属し、肥後八代庄内道前郷安堵状(阿蘇家文書)に「肥後国八代庄内道前郷事、任先例、惟時領掌不可有相違、弥々可抽忠勤之状如件、康永二年四月廿八日」とあり、足利直義が阿蘇惟時に対して道前郷を安堵した。本村中央部の台地は高塚城跡で、旧竹ノ下集落から大野村に至る古道(大野故道)を挟み、字新城しんじよう・東新城・西新城・高塚一帯にまたがる広大な城跡で、吉本城とも大野城ともよばれた。

吉本村
よしもとむら

[現在地名]田主丸町秋成あきなり

陣内じんない村の西に位置する。屋敷地は巨瀬こせ川右岸にある。同川から松井手まついで溝が描かれ、明石田あかしだ溝につながる(上三郡絵図)。吉元村とも記される。本高は一七二石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高二一〇石・役高三〇二石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦七石一斗余・小麦三石五斗余・菜種一石一斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)。寛政元年(一七八九)の撫斗代五斗八升、人数一三九、馬二〇(上三郡取調手鑑)

吉本村
よしもとむら

[現在地名]水上町吉本

鹿野沢かのさわ村の利根川上流左岸に位置。寛文郷帳では田方一斗余・畑方四石九斗余、沼田藩領。寛文三年(一六六三)真田領村高書上控では高二三石余。宝永元年(一七〇四)沼田領村々石高書上では高三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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