原牧・大槻郷(読み)くずはらのまき・おおつきごう

日本歴史地名大系 「原牧・大槻郷」の解説

原牧・大槻郷
くずはらのまき・おおつきごう

平安時代末期から中世にみえる牧名・郷名。ともに現佐原市南東部から小見川おみがわ町西部にかけての地域に比定され、葛原牧小野おの川を挟んだ南北台地を含む範囲と考えられる。大槻郷は「和名抄」にみえる香取郡大槻郷の郷名を継承している。

嘉承―長承(一一〇六―三五)のものとみられる香取社大禰宜大中臣真平譲状(香取文書、以下断りのない限り同文書)に「私領葛原牧内以南織幡村」とみえ、先祖大中臣豊郷から真平に至る一〇代にわたって相伝されてきたという当牧内の織幡おりはた村が嫡子真房(実房)に譲られている。葛原牧は本来香取社領で、大禰宜職が大中臣氏によって相伝されるに伴って、大中臣氏の私領となっていったものと思われる。葛原牧内南半分の織幡村は、東は海上うなかみ木内きのうち(現小見川町)との境、南は千田ちだ(庄か)境二重堀(現栗源町か)、西は福田ふくだ相根おおねとの境、北は田太ただ吉原よしわら大畠おおはたとの境によって囲まれ、現小見川町織幡から佐原市下小野しもおの返田かやだなどを含み、織幡村の北に接していた田太村(多田村)吉原村・大畠村も葛原牧内にあったことになる。長承元年社司(宮司)補任された中臣実基(真元)(「中右記」同年四月二八日条)、同三年頃に葛原牧内織幡・小野両村を押妨したが、実房は本所である関白藤原忠通に訴え、認められている(保元元年一〇月日関白藤原忠通家政所下文)。康治元年(一一四二)忠通が任期満了となった中臣弘廉に替えて鹿島氏人である中臣助重を香取社司職に補任(同年一一月八日摂政藤原忠通家政所下文案)、久安元年(一一四五)には助重を香取大宮司に補任すると(同年八月七日太政官符案写)、私領化していた葛原牧など香取社領をめぐって大中臣氏と中臣氏との間で争いが起こり、これに香取社大宮司職(神主職)をめぐる中臣氏・大中臣氏の争いと、香取社の本家である摂関家の内部争いが絡んだ。なお大中臣氏側の主張では「葛原牧内織幡小野両村」とあったものが(保元元年一〇月日関白藤原忠通家政所下文)、鎌倉時代に入り「葛原・小野・織幡等村々」(建久五年五月日関白前太政大臣藤原兼実家政所下文写)、南北朝期に「小野・織幡・葛原牧」とみえ(暦応四年九月二六日千葉貞胤安堵状)、中臣氏側の主張では「小野・織幡・綱原村」とみえるので(応保二年閏二月日関白左大臣藤原基実家政所下文)、葛原村=綱原つなはら村と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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