南郡(読み)みなみぐん

日本歴史地名大系 「南郡」の解説

南郡
みなみぐん

中世に和泉郡から割置された郡。泉南郡ともいわれた。北から東は和泉郡、南は紀伊国伊都郡・那賀郡、西は日根郡、北西は海。郡域は、現在では岸和田市の大部分と貝塚市の過半を占める。

〔中世・近世〕

貞応二年(一二二三)五月日の僧忍昇田地相博状(高野山文書)に「和泉国南郡加守郷乃井里」と初見。この文書は私領田畑の交換に関する私的文書であるから、中央・地方の公的な行政のなかで南郡が新たに設置されたと判断することはできず、南郡となった地域社会の生活の新たな展開のなかから私的な郡として発生したと考えられる。正応二年(一二八九)に書写された「和泉国神名帳」は大鳥郡・和泉郡・日根郡のほかに泉南郡をあげ四五社を記す。この四五社のうちに山直やまだい(現岸和田市)に所在することが確認できる神社四があり、同様に、八木やぎ(現同上)一、加守かもり(現同上)一、木島きのしま(現貝塚市・岸和田市)四が所在確認できる。前掲の相博状に加守郷がみえることを合せて考えると、和泉郡内の南部を占めていた山直・八木・加守・木島の四郷が南郡または泉南郡として分割・分立したものと考えられる。同神名帳は大鳥おおとり神社(現堺市)禰宜が書写したもので私文書であるが、大鳥神社は和泉国衙の行政とまったく無関係ではなく、したがって和泉郡の分割、南郡の分立を国衙が承認していなかったと断定はできない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報