南浦村(読み)みなみうらむら

日本歴史地名大系 「南浦村」の解説

南浦村
みなみうらむら

[現在地名]菱刈町南浦

湯之尾ゆのお川南かわみなみ村の西,川内せんだい川南岸にある。西は曾木そぎ長野ながの(現薩摩町)、南東は栗野くりの幸田こうだ(現栗野町)本城ほんじよう郷の麓があり、建久五年(一一九四)菱刈に下向した菱刈氏の祖重妙が居城としたとされる太良たら城跡北端にあり、その北側に地頭仮屋(現本城小学校敷地)が置かれた。周囲には麓集落が形成された。文禄四年(一五九五)の東郷源七郎(永吉島津氏豊久弟、のち忠直)宛伊集院幸侃・本田三清連署知行目録(永吉島津家文書)に「薩州菱刈本城内南浦村」とみえ、惣高五六六石余などが与えられた。翌年一二月の源七郎宛の伊集院幸侃知行目録(同文書)では「菱かり本城 南裏村之内」五六六石余などと加増分四二五石余を含む計一千石余が宛行われている。源七郎はのち東郷家から実家永吉島津家に戻り、忠直と名乗って同家を継承したが廃され、その子孫は江戸時代には本城姓を名乗った(島津家久系図)

南浦村
みなみうらむら

[現在地名]橿原市南浦町

天香久あめのかぐ山南麓の村落天香久山にちなむ伝承が多く残っている。慶長郷帳にみる村高は三九八・三六石。寛永郷帳には「南裏村」ともみえる。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦に徳川家康に荷担した赤井忠家は十市郡下で一千石の采地を賜り、さらに新恩一千石の加増を賜った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報