千住大橋(読み)せんじゆおおはし

日本歴史地名大系 「千住大橋」の解説

千住大橋
せんじゆおおはし

南千住みなみせんじゆ六―七丁目と足立千住橋戸せんじゆはしど町の間の隅田川に架かる。江戸時代には小塚原こつかつぱら町と荒川(現隅田川)対岸の千住宿とを結ぶ日光道中の橋。徳川家康が江戸に入部して後、文禄三年(一五九四)荒川に初めて架けられた橋で、当初は単に大橋とよばれた。長さ六六間・幅四間。初めは二町ほど上流に架けられていたが、天明四年(一七八四)下流の現在の地に架替えられたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「千住大橋」の意味・わかりやすい解説

千住大橋
せんじゅおおはし

東京都荒川区南千住と足立(あだち)区千住橋戸町を結ぶ隅田川(すみだがわ)に架かる橋。日光街道奥州街道)の要路にあたるため、徳川家康入城の5年後にできたという。現在の橋(上流側)は1927年(昭和2)竣工(しゅんこう)のもので、長さ91.7メートル、幅24.2メートル。下流側の第二大橋(上り専用)は1972年(昭和47)竣工、長さ502.5メートル、幅18.9メートル。隅田川は正式には北区岩淵(いわぶち)水門から下流をさすが、一般には千住大橋から下流をいい、隅田川十六橋のうちもっとも上流にある。

沢田 清]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の千住大橋の言及

【隅田川】より

… 隅田川は,とくに近世以降,大都市江戸の人々の暮しや遊びと深いつながりをもつに至る。千住大橋はすでに1594年(文禄3)に架けられていたが,江戸時代に入って,明暦の大火(1657)以後両岸が開け,1659年(万治2)に両国橋,93年(元禄6)に新大橋,98年(元禄11)に永代橋,1774年(安永3)に大川橋(吾妻橋)が完成,しだいに江戸の市街地が川の東の本所,深川方面に拡大していった。川風をもとめて将軍,大名から武士,町人までが納涼に足を運び,花見,月見,雪見のときも浅草寺をはじめ両岸の社寺にかけて人出があった。…

※「千住大橋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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