北野新村(読み)きたのしんむら

日本歴史地名大系 「北野新村」の解説

北野新村
きたのしんむら

[現在地名]滑川市北野新

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇央部付近に位置し、東は北野村、北は四ッ屋よつや村。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高六五石、免三ツ七歩(三箇国高物成帳)。所属組は平塚ひらつか村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は久五郎、家数八(百姓七・頭振一)。明和五年(一七六八)の家数一二(奥野家文書)。文化一〇年(一八一三)の早月川懸諸用水水高相改申帳(近堂家文書)によると一〇石分は鋤川すけがわ用水、六〇石分は北野用水に依存しており、鋤川用水の井肝煎として当村の宗左衛門の名がみえる。

北野新村
きたのしんむら

[現在地名]姫路市飾東町北野しきとうちようきたの

印南いなみ郡に所属。あま川上流にある狭長な天川あまかわ(谷外内ともいう)の奥に位置し、南は大釜おおがま村・大釜新村元禄郷帳に村名がみえ、高一二石余。姫路藩領として幕末に至る。天保(一八三〇―四四)頃の領内郷村高覚書(前橋市立図書館蔵酒井家資料)に免二ツ三分五厘、新田高一五石余とある。

北野新村
きたのしんむら

[現在地名]城端町北野

利波となみ川の左岸に広がり、東は北野村のうち長楽寺ちようらくじ、南は同じく吉松よしまつ、西は同じく北野に接する。寛文四年(一六六四)に伊東某が利波川の南方の小さな丘の上の栗林を開拓して新開地としたという(北野郷土史)。天保一〇年(一八三九)村立てとなり、山田組に属した。当時の村高五七石余、免五ツ四歩(「御領国中村名帳」加越能文庫)

北野新村
きたのしんむら

[現在地名]北野町今山いまやま

山村南東にある。今山村の庄屋四代次右衛門の時、北野天満宮門前続き地の在郷町化を久留米藩庁に願出て、元禄三年(一六九〇)認められ、北野新村が成立した(旧家由緒書)元禄国絵図や「在方諸覚書」に村名がみえるものの、無高と記される。天保郷帳には記載がない。町場は当初七、八軒で、宝永年間(一七〇四―一一)に五八軒・町数三町の規模となり(啓忘録抜萃)、嘉永四年(一八五一)には一二五軒、運上銀も一貫三六〇目余を上納するほどになるが、過半は振売人(行商)であった(旧家由緒書)

北野新村
きたのしんむら

[現在地名]黒部市古御堂ふるみどう金屋かなや

東は北野村、西は古御堂村。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五石、免三ツ七歩(三箇国高物成帳)。延享元年(一七四四)から五度の手上高があり、天保一一年(一八四〇)の草高九石余(「高免帳」杉木家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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