北島村(読み)きたじまむら

日本歴史地名大系 「北島村」の解説

北島村
きたじまむら

[現在地名]筑後市上北島かみきたじま下北島しもきたじま

水田みずた村の北、花宗はなむね川中流左岸に位置する。江戸時代中期に東の上北島村、西の下北島村に分れた。中世は水田庄のうち。年月日未詳の某書状(太宰府天満宮文書/筑後国水田荘・広川荘史料(九州荘園史料叢書)、以下中世史料は断りのない限り同文書)および西高辻家系図(西高辻家蔵)によれば、水田庄に居住した善昇が同庄を三人の子息に譲り、そのうち北島村二六町六反余は次男小鳥居氏の祖信実に譲られた。以後小鳥居氏に伝領されたが、小鳥居氏は筑後に在国しなかったため、その後北島村を失ったという。建長二年(一二五〇)六月三日の信全所領注進状案(鎌一〇)に「北嶋屋敷并在家田畠等」とみえ、天満宮修理少別当信全は北水田庄内の当地にあった屋敷・在家・田畠など先祖相伝の所帯などの安堵を申請し認められている。正和二年(一三一三)には少別当兼検校の信朝も同様に安堵されている(同年二月日「信朝所領等注進状」鎌三二)。永和四年(一三七八)高辻長衡は累代の家領である北島村などを小鳥居信会の後継者である安王丸に押妨されたが、大鳥居亀松が年貢を納入させるならば安王丸を代官としてもよいと伝えている(九月二六日「高辻長衡書状」南五)

北島村
きたじまむら

[現在地名]門真市北島・常称寺じようしようじ町・宮野みやの町・朝日あさひ町・野里のざと町・上野口かみのぐち町・千石西せんごくにし町・舟田ふなだ町・大池おおいけ町・大橋おおはし

打越うちこし村の南、ふる川左岸の平坦地。集落は古川沿いの西南端にある。東部は千石沼とよばれた低地。中世、はつヶ湖の中の島を拠地に開拓され、三ッ島みつしま村の北に位置することから命名されたといわれる(門真町史)

元和三年(一六一七)検地帳の表紙に「茨田郡八ケ所北島村」とあり、高四五四石余(浜田家文書)正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高四九九石余、小物成として葭蓮年貢米四石四斗。初め幕府領、寛文六年(一六六六)大坂定番米津田盛領となり、遺領を継承した武蔵久喜藩米津政武のとき領知替で上知、貞享元年(一六八四)大坂定番松平乗次領、元禄郷帳・元文二年(一七三七)の河内国高帳では幕府領、幕末にも幕府領。

北島村
きたじまむら

[現在地名]稲沢市北島町

東は米屋こめや村・奥田おくだ村に接し、寛政村絵図では八神やがみ街道が村の中央を東西に通り、この両側沿いに人家が建並び、市場いちば赤宝田せきほうでんの支郷があった(徇行記)

弘安五年(一二八二)浄金剛じようこんごう院領としての千世氏荘坪付注進状案(醍醐寺文書)に「中嶋郡南条石作郷塩江里」「三宅郷塩江里」とみえる。石作いしづくり郷は市域南東部から海部あま郡東部に及ぶ地域で、三宅みやけ郷も南条なんじように含まれ、現当市の中央部から三宅川に沿って南下し現中島郡平和へいわ町に及ぶ地域であった。

北島村
きたしまむら

[現在地名]小野市大島町おおしまちよう なか

大部前おおべまえ村の南、万勝寺まんしようじ川が加古川に合流する地点より北に位置する。集落は加古川左岸に接する元氾濫原の低地に形成される。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は門前もんぜん村に同じ。正保郷帳では田方一六四石余・畑方八二石余。元禄郷帳では喜多島村と記され、高二五七石余、天保郷帳では高二六八石余。なお当村に宮脇みやわき住吉神社領高一〇石があった(元和五年「小笠原忠政判物写」大島中町有文書)

北島村
きたじまむら

[現在地名]浜松市北島町

安間あんま川流域に位置し、西はささ村。喜多島とも記された。「遠江国風土記伝」は古老の説を根拠に安間村の分村とする。松平忠頼領郷村帳では高一六三石余、田四町三反余・畑一八町六反余、ほか八幡領四石。慶長一六年(一六一一)に検地が実施され、高一六三石余、田畑二二町九反余・屋敷四反二畝余、名請人数三二(浜松市史)。元禄郷帳では高二五二石余。領主の変遷は西にし村と同じ。

北島村
きたじまむら

[現在地名]斐川町名島なしま

出雲平野南方の水田地帯で、北流する斐伊川右岸の小村。北は別名べつみよう村、東はとび村、南は北島川を境に千家せんげ村・神立かんだち村。西は斐伊川を挟んで大津おおつ村・武志たけし(現出雲市)。初め神門かんど郡に属した。杵築大社(出雲大社)領と松江藩領。寛永一五年(一六三八)松江藩は神門郡(のち出雲郡)内北島村の高五三五石余を含む二千七三〇石を杵築大社に寄進している(伊波野村誌)。当村は社領三ヵ村として富村・千家村と同様特別な地位をもち、千家・北島両国造家との仲介役として下代が置かれ、庄屋・年寄を統括していた。租米は杵築(現大社町)と松江へ輸送された。社領地は明治四年(一八七一)上地になった。文政七年(一八二四)の有高輪切帳写(県立図書館蔵)にはすぎ輪がある。

北島村
きたじまむら

[現在地名]上市町北島

上市村の東、上市川扇状地の上部に位置し、東は眼目新さつかしん村、南は上法音寺かみほうおんじ村・湯上野ゆうわの村。北を上市川が流れる。上市村から同川沿いに眼目村に通じる道が通る。当村は江戸時代初めにはもとの上市川の本流の北にあり、氾濫の度に水害を生じ、川の北にある島のような場所であったことより名付けられたといわれる(音杉地誌)。また元亀―天正(一五七〇―九二)頃加賀国から富樫勘兵衛という武士が移住して開拓したともいわれる(上市町誌)

北島村
きたじまむら

[現在地名]高岡市北島

小矢部川と祖父そふ川の合流点、早川はやかわ村の西方に位置。天正一一年(一五八三)八月二〇日の知行方目録(水越家文書)によれば「中郡之内北嶋」の二〇九俵二斗所が槻尾甚助に与えられている。正保郷帳では高六六三石余、田方三三町二反余・畑方一一町、新田高六四石余。明暦二年(一六五六)の高七五三石・免四ツ八歩(村御印留)

北島村
きたじまむら

[現在地名]利賀村北島

細島ほそじま村の北六町ばかり、利賀川左岸(西岸)のわずかな平地に立地。もとは蓬生よもぎおう村と称し、正保郷帳に細島村と併記されて村名がみえる。慶安年間(一六四八―五二)の初め西側の山地が崩壊して一村全滅したが、細島村からの入百姓が再開墾し復興。古高は二七石余、慶安三年の新開高は五石余。ほかに三石余も新開されたが、これは細島村に付された(「菊池旧記」菊池家文書)。復興以後北島村と改称。明暦二年(一六五六)の高三二石余、免四ツ六歩四厘、同年から納所金子六両二匁一分余・塩硝役金子一匁六分余・手上金子一匁四分余、蝋・漆・蓑・紙役金子一匁七分余、計七両二匁五分余を課せられており、この代銀三五二匁五分余を夏成・冬成の両度に納めた(天保一〇年「草高免付百姓数品々帳」利賀村公民館蔵)

北島村
きたじまむら

[現在地名]和歌山市北島

名草なくさ郡に属し、紀ノ川の北岸に位置する。西流してきた紀ノ川は、有本ありもと村付近で南西に転じ、当村付近でさらに南寄りに流れる。また村の南西を土入どうにゆう川が流れ、村の南端で紀ノ川に合流する。土入川の対岸はみなと御膳松ごぜんまつ。紀ノ川を隔てて和歌山城下宇治うじに相対し、城下から直接北岸へ渡る渡場である北島渡(現河西橋付近)によって結ばれている。

慶長検地高目録によれば村高二二七石余。天保郷帳では三二九石余に増加。家数一八七、人数六五八(続風土記)。野崎組に所属。文政六年(一八二三)の紀ノ川筋一揆の際、当村の一揆勢は名草・海部あま両郡中で最も激しく、北島村騒動といわれたほどで、六名の刑死者を出した(口五郡百姓騒動実録)

北島村
きたじまむら

[現在地名]高岡市上北島かみきたじま

祖父そふ川右岸に位置し、東は福田新ふくたしん村、南は石塚いしづか村、西は六家ろつけ村。福田ふくだ七村の一。元和五年(一六一九)の家高新帳では、福田組に属して村名がみえ、役家数九。正保郷帳では高三〇九石余、田方二〇町六反余。寛文二年(一六六二)福田七村の村切がなされ(「村切申付状」川合家文書)、同一〇年の村御印による草高三九三石・免四ツ二歩(三箇国高物成帳)。延宝四年(一六七六)の役家数七、肝煎は彦左衛門(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)

北島村
きたじまむら

[現在地名]熊本市池田いけだ四丁目

とみ山台地の西端に位置し、井芹いせり川を挟んで西は柿原かきばる村、南は川沿いに池亀いけがめ村に接する。慶長一三年(一六〇八)の検地帳では、田方六町一反余・畠方一二町一反三畝余で、分米一六六石一斗余、畠方のうち二町一反七畝余は永荒、屋敷登録人一〇、家数三四、男二〇・女一四、馬一・牛五、茶床一畝三歩がある。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では、京町太郎右衛門手永に属し、当竿前は田五町一反二畝余・畠七町一反一畝とある。その後池田手永に属し、宝暦一二年(一七六二)の下ケ名寄帳では惣畝数一四町五反四畝余、うち本方一二町二反二畝余・新地一反三畝余・諸開畑二町一反八畝余で、庄屋清左衛門のほか頭百姓一・小百姓一〇がいた。

北島村
きたじまむら

[現在地名]岩倉市北島町

北は塩尻しおじり(現一宮市)、東は野寄のより村、南は伝法寺でんぽうじ(現一宮市)、西は三井みつい(現一宮市)に接する。天保村絵図によると集落はほぼ方形に近く、中央に曹洞宗の金玉山向陽こうよう寺が、北西と南に墓所が描かれている。文和二年(一三五三)七月日の尾張国郷保地頭正税弁済所々注進状案(醍醐寺文書)に「奈良津 北嶋 東得田 四十二貫文 恒冨掃部助跡」とあるのが初見。ただし中島郡北島村(現稲沢市)にも比定しうる。確実な初見は天文九年(一五四〇)七月三日の正眼しようげん(現小牧市)宛の足利義晴御内書写(正眼寺蔵)で、「於尾張国春日井郡宇福寺村并丹羽郡伝法寺村・同北嶋村以上百五拾貫文之事、并寺中門前屋敷令寄進訖、全可為寺納者也」とある。

北島村
きたじまむら

[現在地名]松任市北島町

松本まつもと村の南に位置し、その境を大慶寺だいぎようじ用水が流れる。木曾きそ街道が通り、枝村にしま垣内がある。中世には一帯に北島保が成立していた。正保郷帳によると高一千一四〇石余、田方七四町二反余・畑方一町八反、ほかに新田三〇石余(免三ツ)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一千一九六石、免四ツ四歩、小物成は鳥役三〇匁(ただし鷹場につき免除)であった(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数八・百姓数二七(高免付給人帳)

北島村
きたじまむら

[現在地名]岐阜市北島

瓢箪形をしたしま輪中の胴部中央に位置し、南は西島村・菅生すごう村、北は萱場かやば村。北境から西境を両満りようまん川が半円を描いて流れる。小島こじま村とも称された。両満川の川筋は古くの長良川筋であったとも推定される。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳によれば高二三〇石余。正保郷帳でも同高で畑方のみ。領主の変遷は東島村と同じ。弘化二年(一八四五)村役人は先祖を大切にし一族協力して礼儀正しく雑言しないこと、親類中は我意を張らず義理を第一とし相談すること、生活困窮者が出たら相互に助け合うことなどを決めている(大洞文書)

北島村
きたじまむら

[現在地名]上志比村北島

九頭竜くずりゆう川中流域左岸に位置し、北西は九頭竜川を挟んで栃原とちはら(現永平寺町)、南西は野中のなか村。南を勝山街道が通る。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「志比上之庄」(高二二八三・六五石)に含まれていたと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方九一石余・畠方六五石。正保二年(一六四五)福井藩領から松岡藩領となり、享保六年(一七二一)再び福井藩領。

北島村
きたじまむら

[現在地名]篠山市北島

井之上いのうえ村の北西にあり、篠山川が南流する。南部のこう山の麓に薬師寺跡川島かわしま寺跡などがある。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「はうかべ之内北島村」とみえ、高一八〇石余。正保郷帳では田高二一二石余・畠高二〇石余。元禄郷帳では波々伯部ほほかべを冠称する。

北島村
きたじまむら

[現在地名]磐田市北島

千手堂せんずどう村の北にあり、東は保六島ほうろくじま村。豊田とよだ郡に属する。修験者が多く住むことから法印ほういん村とも通称した。正保郷帳に北島村とあり高七五石余、幕府領。うち田方四二石余・畑方三三石余、日損と注記される。元禄郷帳では高八七石余。元禄一二年(一六九九)の青山忠重領知目録に村名がみえ、浜松藩領。

北島村
きたじまむら

[現在地名]佐賀市嘉瀬町かせまち大字荻野おぎの字北島

荻野村・本町もとまち村の東。ほぼ短冊形で南北に長く、クリーク東西南北に走っている水田地域。集落は村域の中央にあってやや北寄りの荻野村・深町ふかまち村を結ぶ道路に面し、周囲を堀で囲まれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報