北品川(読み)きたしながわ

日本歴史地名大系 「北品川」の解説

北品川
きたしながわ

品川郷が南北に分立して生れた地域呼称。中世の北品川は品川(現目黒川)左岸にあたるが、鎌倉時代の半ばに南品川地名が確認できるのに対し、戦国時代の半ばになって初めて北条氏家臣の島津忠貞の寄進状に「北品川清徳寺」と地名が確認される(天文一二年九月六日「島津忠貞寄進状写」清徳寺文書)。また天正一一年(一五八三)四月一一日の北条氏照朱印状写(武州文書)には「南北之宿」と出てくることから、町場の形成が南品川に比して遅れたことが推定できる。地域内の地名としては、北条氏所領役帳に江戸衆の島津孫四郎(島津忠貞の子息か)と島津又次郎の所領として「北品川法林院分」が記されているほか、天正二〇年の徳川家康の検地による清徳せいとく寺への寺領打渡状(清徳寺文書)からは、寺周辺の「会下之台」「北みはし」「馬庭崎」「宮の上」「宮の下」「山の後」などの地名が確認される。なお北品川は近世御殿ごてん山とよばれるようになった丘陵が海に迫っていて、海に面した東側に寺院が散在している地域で、信仰的な場の形成がその出発点となったことを推測させる。御殿山は品川の町から見て北西の方角に位置し、町や港を見下ろす絶好の立地であるとともに、海に突き出た丘陵が海上を行交う交易船や近在の漁船運航の目当てともなった場所、いわゆる「あて山」でもあったことが考えられる。

御殿山は江戸時代末に山の東側が品川台場の築造のための土取場となり、その際に板碑・五輪塔・宝篋印塔などの中世石造物と人骨が出土している(嘉永七年「公用記録附山中事故」東海寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報