品川(読み)しながわ

精選版 日本国語大辞典 「品川」の意味・読み・例文・類語

しながわ しながは【品川】

[一] 東京都品川区北東部の地名。東京湾に面する地域で、江戸時代東海道五十三次の第一の宿駅が置かれた。その宿場町は歩行(かち)新宿・北品川宿南品川宿に分かれ、本陣は歩行新宿の北本宿に置かれた。薩摩藩士、僧の出入りで名高い遊里としてもにぎわった。明治二年(一八六九)品川県となり、同四年東京府荏原(えばら)郡品川町となって郡役所が置かれた。昭和七年(一九三二)東京市の市域拡張に伴い、隣接の大崎町・大井町を含め品川区となる。
[二] 東京都二三区の一つ。昭和七年(一九三二)設置された品川区に、同二二年荏原(えばら)区を合併して現在の区域が成立。西部の台地は住宅地、東部と目黒川の沿岸は工場が多く、京浜工業地帯の一部を形成する。

しながわ しながは【品川】

姓氏の一つ。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「品川」の意味・読み・例文・類語

しながわ〔しながは〕【品川】

東京都の区名。昭和22年(1947)荏原えばら区を合併。江戸時代、東海道五十三次の第一宿駅。人口36.5万(2010)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「品川」の解説

品川
しながわ

品川という地名は平安時代から鎌倉時代への移行期に品川郷として史料にみえ、開発領主は紀氏姓大井氏から分れた品河氏。品川(現目黒川)の下流域一帯を占めたが、一三世紀の二〇年代には南品川の呼称がみえ、この頃には南北に区分されていた。品川の地は古来水陸交通の要衝で、中世に宿・港津を核に都市化した。

〔品川郷〕

品川の地名が史料に初めて登場するのは鎌倉幕府が開かれる直前の元暦元年(一一八四)八月七日の源頼朝下文(田代文書)で、品河氏の三郎清実へ「品川郷」の雑公事が免除されたことが記されている(地名品川は中世史料のうえでは品川・品河が混用されるが、以下引用を除いて「品川」と表記)。品河清実は「尊卑分脈」紀氏系図に「号品河三郎」と注記される人物である。品河氏は一二世紀半ばにこの地域に土着した紀氏を本姓とする大井氏から分家した開発領主で、大井氏は武蔵国府の国衙領である六郷ろくごう保と大井郷を支配した保司であったと考えられている。現在、品川区に所属する品川と大井は表裏一体の地域ということができる。大井氏の祖は紀氏大井実直で、実春・秋春と続いた。また実直から分家した清実は品河氏を名乗り、以下清経へと続いた(「尊卑分脈」紀氏系図、「大井系図」大井文書)。実春・清実はともに鎌倉幕府の御家人として活躍している。貞応二年(一二二三)には鎌倉幕府執権北条義時が品河清経に清実の所領四ヵ所の地頭職を任じており、その所領に「武蔵国南品川郷内桐井村」の名がみえる(同年六月二〇日「関東下知状」田代文書)。この「桐井村」に類似する地名として近世に桐ヶ谷きりがや村があって関連が推定されるが、他の史料からは確認することができない。両者の関係はともかくとして、この時すでに品川郷が南北に区分されていたことがわかる。建治元年(一二七五)には京都左女牛西洞院さめうしにしのとういん(現京都市下京区)の六条八幡宮(現同市東山区若宮八幡宮社)造営に際して、幕府御家人の「品河人々」が七貫文を賦課されている(同年五月日「六条八幡宮造営注文」国立歴史民俗博物館蔵)

大井氏から分れて品川沿いの地域に新たな領地を獲得した品河氏は南品川に居館を設けて、町や農地を発展させていった。当初の居館を中心とした町場は港津の整備や地域構造の変化に伴い、海沿いの地域にしだいに移行していったものと考えられる。品河氏館の伝承地は近世の地名で権現台ごんげんだいとよばれる大井に面した台地上にある。南側を立会川が流れ、隣接して蔵王権現社(勧請時期は不明)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「品川」の意味・わかりやすい解説

品川 (しながわ)

東京都品川区北東部の地名。目黒川が東京湾に注ぐところにあり,西部の武蔵野(山手)台地と東部の沖積地,埋立地からなる。1878年東京府荏原(えばら)郡に編入され,1932年には東京市に新設された20区のうちの品川区となり,47年に西隣の荏原区と合体して現在の品川区が成立した。江戸時代には東海道の宿駅と漁師町として栄え,1872年(明治5)に新橋~横浜間に開通した日本最初の鉄道は,この地域の海沿いを走り,隣接する高輪に品川停車場がつくられた。76年には近代洋式工場,品川硝子製造所が建設され,その後,東京湾岸の埋立ても進んで電気機械工業を中心とする京浜工業地帯の一角を形成した。1964年完成した品川埠頭(ふとう)には東京電力品川火力発電所があり,その南の大井コンテナー埠頭に続く。海岸沿いを首都高速道路1号線,湾岸線,モノレールが走るほか,JR東海道本線,山手線,京浜東北線,京浜急行線が集まる。2003年東海道新幹線の品川駅開業。沢庵の開いた東海寺,海晏(かいあん)寺,品川神社など寺社も多い。
執筆者:

武蔵国荏原郡の東海道の宿駅。古くは品川郷,品川町,品川浦などとも呼ばれた。品川の地名は,すでに12世紀末に見られるが,14世紀後半から15世紀末にかけては品川湊が繁栄し,富裕な町人も出現した。江戸時代には宿駅が設けられ,東海道の第1宿として知られた。1843年(天保14)3月の品川宿《宿方明細書上帳》には,芝稲干場銭(しばいねほしばせん),林銭,藪銭,芝間銭(しばません),猟師町裏築立地野永(りようしまちうらついたてちのえい),芦野銭,網干場銭,海苔運上,御菜肴代(おさいさかなだい),船役銭,船焚御運上(ふなだきごうんじよう),旅猟船(たびりようせん)運上などが同宿の小物成(雑税)としてあげられている。御菜肴代は江戸城に納入していた鮮魚納めが,1792年(寛政4)以来,代金納になったもの,船焚運上は同宿のものが売っている,諸国廻船,新造船,古船が保全のために船底を焼く燃料のカヤに課税されるもの,旅猟船運上は安房・上総の漁船が品川浦沖合で網漁をするので,これらの漁船から徴収するものである。これらの課税は品川宿が農漁村であるとともに,漁港・商港であることを示している。ただ農業については《宿方明細書上帳》が,宿内で手作するものはまれで,多分に入作(いりさく)にしていたと説明しているから,天保年間ころには宿方の百姓は持地を小作に出していたものであろう。

 宿場としての品川宿は,宿内町並19丁40間余(2145m余)で,北品川宿,南品川宿,歩行(かち)新宿から成っていた。江戸日本橋へ2里(7854m),川崎宿へ2里半を継ぎ送りする。《東海道宿村大概帳》によると,1843年には宿内総家数1561軒,総人数6890人,うち男3272人,女3618人であった。本陣1軒が北品川宿にあり,脇本陣は南品川宿,歩行新宿に各1軒あった。人馬継問屋は1ヵ所で,南品川宿地内に置かれた。問屋場役人は問屋2人のほかに年寄,帳付,馬指(うまさし),人足指,迎番など20人であった。宿立人馬は100人・100疋であるが,このうち定囲5人・5疋,臨時御用囲が25人・25疋であった。品川宿の役は,北品川・南品川の両宿が各々馬50疋を,歩行新宿が人足85人を,ほかに人足2人半を北品川宿,8人半を南品川宿,4人を海晏寺,品川寺,海雲寺,長徳寺の4ヵ寺門前が負担した。品川宿に,府中宿(駿府),草津宿とともに,荷物貫目改所(かんめあらためしよ)が設置されていたことは,この宿の重要性を示すものであろう。品川宿が東海道の第1宿であったことは,ここが江戸の出入口であると考えられ,千住(日光道中),板橋(中山道),内藤新宿甲州道中)とともに四宿といわれ,江戸の内外を分ける一つの目安となった。江戸から東海道を旅するものの見送りは品川宿までを第一としている。宿場としての品川の発展は,ここの町場化を進め,1843年の《宿方明細書上帳》では宿内1561軒のうち,職人128人,商人601軒を数えている。商人のうちに平旅籠屋19軒,食売旅籠(めしうりはたご)92軒,水茶屋64軒があった。食売旅籠は食売女(飯盛女)を置くことが許されたものであり,当時品川宿には飯盛女500人を置くことが公認されていたが,それをはるかに上回る女性が接客に当たり,内藤新宿とならぶ江戸の岡場所となっていた。品川宿は町場化によって商業都市としても成長し,この地方の在郷町として発展した。品川宿の南の鈴ヶ森には刑場が置かれ,品川沖には幕末に台場が築かれた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「品川」の意味・わかりやすい解説

品川
しながわ

東京都品川区北東部、JR、京浜急行電鉄品川駅の南方の地区。山手(やまのて)台地から目黒川沿いの低湿地、さらに東京湾岸の埋立地にかけて広がる。目黒川を古く品川とよんだこと、付近の高輪(たかなわ)に対し品ヶ輪と名づけたこと、また鎧(よろい)の威(おどし)に用いる品革の染色が行われていたことが地名の由来という。現在、目黒川以北が北品川、目黒川以南のうち東海道本線を境として西側が西品川、東側が南品川、東部の埋立地が東品川と4地区に分かれる。

 中世には品河氏の居住地であったが、江戸時代は幕府直轄地となった。京浜急行電鉄北品川駅と八ツ山通りの間の狭い道が旧東海道で、ここに江戸四宿の一つ品川宿が置かれた。駅馬36匹、遊里もでき、四宿のなかでもっとも繁栄した。品川宿の中心、北本宿(ほんじゅく)にあった本陣跡は現在聖蹟(せいせき)公園となっている。

 山手台地太田道灌(どうかん)の館(やかた)があったことから御殿山(ごてんやま)とよばれ、江戸時代はサクラの名所であった。現在は大使館が置かれ、高級住宅地となっている。東品川は、ノリ採取地であったが、大部分は1887年(明治20)以降の埋立地で、工業地区として発展、北東端に火力発電所、コンテナターミナル、品川埠頭(ふとう)がある。北品川には品川天王祭の品川神社、沢庵(たくあん)禅師開基の東海寺、南品川には江戸六地蔵の品川寺(ほんせんじ)、岩倉具視(ともみ)の墓所の海晏寺(かいあんじ)があり、旧東海道筋には史跡が多い。

[沢田 清]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

事典・日本の観光資源 「品川」の解説

品川

(東京都品川区)
東海道五十三次」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の品川の言及

【南閨雑話】より

…1冊。南閨は品川の遊里をいう。国元から上った藩の重役人を,江戸詰めの作事役人沢井が,工事請負人忠治や材木屋の若息子幸治郎,大工長七などと品川の遊里に遊ばせるという構成をとる。…

【南江駅話】より

…1冊。南江は品川をさす。吉原通(つう)を誇る半可通(はんかつう)酔無が,3人の友人とともに初めて品川に遊び,女に冷遇されるのと,友人の一人袖浦(しゆうほ)がなじみの女に好遇されるのとを対照的に描いている。…

※「品川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android